陽が昇る。 海岸沿いの駐車場に車を停め、倒しきった背もたれに体を預け寝そべりながら、 水平線から昇ってくる太陽を眺めた。 海水浴シーズンではないが、海岸には数人のサーファーがいる。 駐車場にはそんな彼らの車も数台停まっていた。 夜明けを待ち、波に向かって行くのだろう。 昨日の朝、ゾロは署のソファで横になり、待機命令が解除されるのを待っていた。 まさか今日の朝までアパートの布団で目覚める事が出来ないとは思わなかった。 独り暮らし。 冷蔵庫の中の、この1週間で食えなくなるものを思い浮かべる。 気になるのは一昨日買った納豆くらい。帰る頃にはもうダメだろうな。 帰れるかどうかも怪しいが 欠伸を洩らし、伸びをし、起き上がろうとした 「―――――っ!!」 寸での所でそれを避けたが、ミニクーパーの天井に見事に凹みが出来た。 反射的にそれをひっつかみ、空いた手で相手の喉元を押さえつける。 「ぐっ!!」 「ずいぶんと威勢のいい寝返りだな。クセの悪ィ脚だぜ」 助手席のシ−トも後ろに倒され、サンジはそこに寝かされていた。 体の上にゾロのジャケット。 まだ眩む目をやっとの思いで開いてみると、隣でゾロが欠伸をしているところだった。 「…てめェ…!レイジュをどうした!?」 「この状況でそうくるか?理解できねェならアホだな。バカ王子」 「レイジュを逃がしてくれと言ったんだ!?なんでてめェがおれと居る!?」 「お前の姉貴がお前より一枚上だったんだ。理解して受け入れろ。そんで黙れ。うるせェ」 サンジはドアを開け飛び出し、辺りを見回した。 「どこだ…」 「海だ」 「見りゃわかる!どこの海か聞いてんだ!!このマリモ頭!!」 「………」 ゾロも車から降り 「言ってわかるんか?」 「…う…」 「落ち着け。体もしんどいはずだ。お前の姉貴、最大出力でお前を撃ったぞ」 「………!!」 ゾロは、手にしていたペットボトルを投げた。 受け取り、眉間にしわを寄せた仏頂面のまま、サンジはキャップをひねり、水を煽った。 「レイジュめ…」 「さっき連絡が入った。ホテルに着いたそうだ」 「………」 「行くぞ。乗れ」 「…エラそうに命令すんな…」 「生憎、育ちが悪いもんでな。お上品な言葉を知らねぇんだ」 再び、赤いミニクーパーは朝日に照らしだされた海岸線の道を西へ走りだす。 ダッシュボードの上に無造作に置かれたコンビニ袋を、ゾロはサンジの膝にぶっきらぼうに載せた。 「何が口に合うのかわからんがとりあえずメシだ。口に入れておけ」 「………」 袋の中には数種のパンとおにぎり。牛乳、野菜ジュース、そして水と缶コーヒー。 パンをかじるか?と、横目で見たが、サンジはおにぎりの包装を外しかぶりついた。 「…美味いな…」 「梅干しだぞ?大丈夫か?」 「美味い。これはなんだ?フルーツか?しょっぱいし、酸っぱいし…けど、プラムのような味だ…」 「梅の実だ」 「ふうん…」 微妙に会話がかみ合っていないが、それ以上ゾロは何も言わなかった。 サンジも黙々と梅干しと鮭のおにぎりをたいらげ、大きく息をついた。 おにぎりはゾロが食べようと思い買ったものだが、何も言うまい。 「ジェルマでは果実は高級品だ…」 「………」 「ここは…きれいな国だな…」 「理想を押しつけるな」 「幸せがあたりまえになると…その幸せに気づけない」 「………」 「不幸があたりまえになると…それが幸せだと気づかない」 「…そうかもな…」 ゾロの答えにサンジは一瞬驚き、笑った。 ミニクーパーは海岸線から内陸に向かう道を走り出す。 市街地を抜け、住宅街を抜け、次第に山の方へ。 「…サクラ…」 「あ?」 「サクラは…もう咲いていないのか?」 「桜か…そうだな…もう終わった」 「そうか…残念だ…」 ハンドルを切りながらゾロは言う。 「山の上に行けば、八重桜ならまだ咲いているかもな」 「ヤエザクラ?」 「普通の桜より豪華だぞ」 「へぇ!」 サンジの明るい声。 「見たいな」 ゾロは答えなかった。 サンジも答えを望んではいなかった。 花を愛でる旅ではない。 また、サンジは黙り込む。 顔を伏せ、唇をかみしめ またしばらくして 「…すまない…」 小さな声で、サンジは言った。 「謝られる覚えはねェな。巻き込まれた詫びなら覚えはあるが」 「………」 車はどんどん山に入って行く。 だがサンジは何も尋ねなかった。 ようやく、サンジにも読める英語表記のある看板が現れた。 「ハコネ…」 「おう。直に着く」 まだ平日の午前中のせいか、観光地に向かう道の流れはスムーズだ。 大型バス、バイク、乗用車、自転車、あらゆる乗り物が坂を上っていく。 「芦ノ湖」と書かれた看板から逸れ、赤いミニは狭い脇道に入った。 住宅も少ない山道。木々の向こうに見える湖、あれが芦ノ湖だろうか。 また脇道に入る。 今度は舗装もされていない道。 ガタガタと車体を揺らしながら、緑の中を赤のミニはやがて開けた場所に出て停まった。 「着いたぞ。降りろ」 「…どこだ?」 「…来りゃわかる」 車を降り、ドアをロックし、砂利を踏んでゾロは先に立って歩き出す。 雑草の生い茂る広場。 すっかり葉だけになった桜の木。 その広場の端にサッカーのゴールポスト。鉄棒もある。ここは 「学校…?」 「へェ、わかるか?そうだ学校。20年以上前に廃校になった」 「なんでお前…こんな場所を…?」 「おれの出た学校だ。そんで今はおれんちだ」 「は!?」 学校が家? 不思議に思いながらゾロの後を追う。 決して整備されているとはいえない校庭を突っ切り、 数段の階段を上がり古く朽ちかけたような木造校舎の昇降口に入る。 古いが、荒れてはいない。 常に清掃され手入れをされている雰囲気がある。 明らかな人の手が入っている気配。 昇降口にはかつて子どもたちが使っていた下駄箱があり、いくつかにスリッパが入っている。 その一足を、ゾロはサンジの前に無造作に投げた。 片方がひっくり返った。 サンジはわずかに眉をひそめたが、身を屈め、自分で揃えてスリッパをはいた。 その様子を見て、ゾロは小さく笑った。 「何がおかしい?」 「いや、別に」 王子の身分で、こんな雑な扱いをされることは無いだろうに。 それでも文句は言わねェか。 「どちらさまです?…おや?ゾロ?」 声が響いた。 手に、ほうきとちり取りを持った男が廊下の真ん中でこちらを見ている。 ゾロは背筋を伸ばし 「ごぶさたしてます。先生」 「本当にごぶさたですねェ。いきなりどうしました?…おや?お友達かな?」 眼鏡をかけた、穏やかな笑みの男はサンジを見て言った。 サンジが、チラとゾロを見た時 「ああ」 とゾロはあっけらかんと答えた。そして 「先生、今夜泊めてもらえますか?」 「かまいませんよ。ここは宿ですし、それより何より、君の家でしょう?」 「ありがとうございます」 「君の家です」 また、男はそう言った。 ゾロが 「おれの恩師だ。おれが親を亡くした後親代わりになってくれた人だ。信用していい」 「親代わり…親のつもりなんですが?はじめまして、コーシローと申します。 えーと…ないすちゅーみーちゅー?」 棒読みの英語の挨拶にサンジは笑い 「はじめまして。サンジといいます。お世話になります」 「おお!上手な日本語だ!よかった〜」 心底安心したという顔でコーシロー言い、ほうきとちり取りを床に置くと 「ようこそ。『森の学び舎』へ」 「お世話になります…」 ぺこりとサンジは頭を下げた。 金の髪が陽に映えて光る。 「ゾロ。予約の電話をくれなければ困るんですよ、本当は」 「客じゃねェんで」 「お客じゃないなら泊めてくれますか?なんて聞くもんじゃありません」 「……はい」 ふてぶてしくぞんざいな態度が消えうせ、怖い先生ににらまれた悪ガキになっているのが 「何笑ってんだ…」 「笑ってねェよ」 「笑ってんだろうが!」 「笑ってねェって!」 「ゾロ」 コーシローの呼びかけに、途端にゾロは黙り込む。 おもしれェ 心の中でサンジは呟く。 長い木の廊下を3人で奥へ歩きながらコーシローが言う。 「この学校が廃校になった時、わたしがここの校長をしていましてね… なくなってしまうのがあまりに惜しくて、居残ってしまいました」 使い道もなく、かといって解体する資金も町にはなかったので、 コーシローが安く借り受け宿泊施設にしたという。 さまざまな分野の合宿に使われることが多いそうだ。 そして剣術師範でもあるコーシローは、ここで剣道の道場も開いており、週に4日、 子供たちの稽古の声でにぎわうという。 「ゾロ、稽古はしているかい?」 「…すんません…」 「はは…忙しいのだろう?仕方がない」 「稽古、つけてもらえますか?」 「疲れているのじゃないか?」 「いえ、お願いします」 コーシローは立ち止まる。 「とりあえず、お茶にしよう。それからにしようか?…サンジくん、疲れているようだ」 「………」 サンジは首を振った。 だがコーシローは微笑んで 「お茶にしましょう」 『1ねん1くみ』と書かれた札がかかっている。 元は教室だが今はコーシローの住い。 引き戸を開けるとそこは畳の部屋で、かつて黒板があったであろう場所は台所になっている。 食器棚、冷蔵庫、教室の後ろ側の黒板前にはベッドと箪笥。 本棚、机、小さな仏壇。 「どうぞサンジくん。足は崩して自由にしてください。椅子でなくてすみません」 「いいえ、ありがとうございます」 ゾロはまっすぐに仏壇の前へ行き、座布団を避け、膝をそろえて座った。 「………」 ろうそくに火をともし、線香に火を点け、手を合わせる。 目を閉じ、しばらくゾロは黙祷をささげていた。 写真がある。 それもふたつ。 黒髪の女性と、やはり黒髪の幼さの残る少女。 その様子を見つめるサンジへコーシローが言う。 「私の妻と娘です。妻は病気で、娘は事故で逝きました」 「………っ」 「…娘を失ってすぐに…ここの廃校が決まりましてね…なんだかいろいろ嫌になってしまって 教師をやめたのです」 「そう…ですか…」 「…ゾロがいてくれましたので…なんとか立ち直ることができましたが… 何せこういう子なので、悲しみ悩むヒマがありませんで」 「…ぷ…」 思わずサンジは笑った。 「聞こえてるぜ、先生」 「聞こえるように話していますからね」 仏壇の前から離れ、ゾロは座卓の前で胡坐をかく。 「コーヒーか紅茶の方がよかったでしょうか?」 緑茶を出しながらコーシローが尋ねたが、サンジは笑って首を振る。 「サンジくん、実はここには温泉もあるのですよ。箱根は温泉の宝庫ですから、 ゆっくり楽しんで行ってください」 「…あ…はい…」 ゾロが、湯呑みをあおって言う。 「あんまゆっくりしてられねェ。明日の夜明けにはここを出るんで」 コーシローの眉が寄せられる。 「せっかく帰ってきたのに、そんなに忙しなく?…じゃ、なんでわざわざサンジくんとここへ…………あ?」 ひとり合点したように、こーしろーはピンと背筋を伸ばした。 「もしかして…サンジくんは『お友達』じゃなくて」 ゾロがギョッと目を見開く。 サンジもさっと顔を青ざめさせた。 まさか 「サンジくんは君の『大切な人』なのかな?ゾロ?」 次の瞬間のゾロを、どうして写真か動画を撮っておかなかったのだろうかとサンジは後に悔やんだ。 自分がツィッターやインスタグラムをやっていたら、まちがいなくこの動画をUPして「いいね」を稼いでいただろう。 そして座卓が吹き飛ぶ瞬間、自分とサンジの湯飲みを守ったコーシローは タダモノじゃないということも十分に理解した。 「…たっ!大切…!?」 『大切な人』という日本語の比喩的表現をサンジは理解できなかった。 単純に理解した『大切な人』の意味は、「姉から護衛を依頼された相手であるところの自分」というものだ。 しかしコーシローは、ゾロが真っ正直に受け止めたとおりの意味合いで、極めて真剣に尋ねたのだ。 「今まで君が友達を連れてきたことなんかなかったでしょう?その君がサンジくんを連れて来て、 忙しなく明日には帰るなんて…そんな忙しい思いをしてまでここへ連れて来てくれたという事は そういう事じゃないのかい?ゾロ?」 「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜違う!!」 コイツもこんなおもしろ顔になるのか。 ところで、何を話しているのかよくわからねェな… 「今どきだから、そういう事もあるのかな?と思ったのだけど?」 「とりあえずそういう趣味はねェよ!!」 「女の子に興味なさ過ぎて心配した時期もあったのですよ?」 「…頼む…先生…そういうんじゃねェんだ…ぶっちゃけ…少々コトは深刻なんだ…」 コーシローが黙り込む。 「お仕事ですか?」 「…違う…」 「………」 「…今は…何も言えねぇ…」 「そうですか」 コーシローはサンジを見て、小さく微笑んだ。 「やはり、大切な人なのですね」 「………?」 ゾロが黙って頭を下げた。 サンジも、頭を下げる。 僅かな沈黙の後、コーシローはパン!と手を叩いた。 「…今夜は鍋にしましょう!今日はひとりじゃありませんからね! いただいたイノシシの肉があるんですよ!解凍しておきましょう!」 立ち上がり、冷凍庫を空けながら 「道場へ行きましょう」 コーシローの声に、先ほどまでなかった鋭さがあった。 道場は、校舎の端にあった。 「6年1組」と「5年1組」と書かれた札の教室の壁を取り払った広い部屋。 神棚、床の間。 サンジは初めて見る日本の文化に目を見張る。 きちんと防具をつけ、一礼し、相対する。 サンジの頬がほんのりと赤い。 目の前で、日本の剣術を見られるとは思っていなかった。 そこから、いったい何が目の前で起きたのか。 竹刀を打ち合う激しい音。足が床を叩く音。 身に着けている防具は重くはないのだろうか。何とも俊敏な動き。 フェンシングのような直線的な動きとは違う。 (すごい…なんて力強く…美しいんだ…) 長く打ち合う中で、コーシローがゾロの小手を奪ったのがサンジにも分かった。 「小手」がわかるワケではなかったが、面の下のゾロが「しまった」という顔をしたのが見えた。 激しい竹刀の音。 時に間合いを取り、じっと対峙する。 と、まるで弾かれるように飛び、また打ち合う。 そして コーシローの竹刀がゾロの胴に入った。 「3本目です」 「…くそっ…!」 「言葉が汚い」 礼を交わし、面を取ったゾロが言う。 「なんで勝てねェかな…」 手拭いを外し、そのまま顔の汗も拭く。 「邪念が多いのでは?」 「………」 「冗談です」 コーシローは笑った。 「稽古不足です。明らかに」 「…すんません…」 「詫びる事ではありません。剣がどんなに強くても、それで生きていける時代ではないですから」 「………」 「心の強さを得るための修養です。勝つことが目的ではない」 「ありがとうございました」とあいさつを交わし、コーシローが言う。 「お風呂に入ってきなさい。サンジくんもどうぞ」 「え?」 竹刀を刀架にかけながら 「宿泊者用の広いお風呂があります。10人ぐらい一度に入れますから。ゾロ、案内してあげなさい」 「おう」 道着のまま、ゾロは先に立って歩き出す。 「食事の支度を始めますから、どうぞごゆっくり」 「は、はい」 サンジも、ゾロの後について道場を出る。 ゾロは後ろを見もせずに、すたすたとかなり先を歩いていた。 「こっちだ」 この校舎を歩いて初めて「角を曲がる」ということをした。 廊下を進むと、掘立小屋のようなトタン屋根の建物があった。 近づくと 「…なんの匂いだ?」 サンジが尋ねるとゾロはこともなげに 「硫黄だ。温泉の成分の匂いだ」 答えながら、がたついた木の扉を開ける。 すると 「わ!」 もわっ と、湯気が全身をつつむ。 サンジが知識として知る日本の温泉とは程遠い。 脱衣所もないいきなりの湯船と洗い場。 入り口に棚があり、そこに脱いだ衣服を置いておくようだ。 石を積み上げて作られた壁は硫黄成分が付着し、黄白色の粉を吹いている。 屋根はあるが、石壁との間に隙間があり、強い雨が降ったら吹き込んでくるだろう造り。 決して風情のあるという風呂ではない。 さらに ゾロは、扉の前、つまり風呂の外側、まだ廊下という場所で背中を向けてさっさと全裸になり、 着ていた道着を廊下の手すりにかけて中に入ってしまった。 「ここで脱ぐのか!?」 「誰も来ねェよ。嫌なら中で脱げ」 「そ、そうかもしれないけど…!」 「さっさと来い!開けっ放しだと湯が冷める!日本の風呂の入り方わからねェだろ!?」 「………!!」 「この先、いつ風呂に入れるかわかったもんじゃねェんだ。さっさとしろ」 ゾロは3日ぶりの風呂。 先に髪を洗い体を洗い、泡を流す頃になってようやく 「遅ェよ。思春期の女子か」 「うるせェ…シシュンキノジョシってなんだ?」 背中からのサンジの声にゾロは息をつく。 「今のは覚えなくていいぞ。…日本の風呂は湯船に入る。湯船の湯を汚さないように、 入る前に軽く体を洗い流す」 言いながら、自分も手桶で湯を浴びながら振り返る。 振り返った自分を見て、サンジが息を飲むのがわかった。 「なんだ?」 「…その…傷…」 「……ああ」 ゾロの胸に、左肩から袈裟懸けの大きな傷。 明らかな刀傷だ。 「ガキん時にな」 「ガキ…の時…?」 「子供の時って事だ」 「手術…?」 「違う。殺されかけた」 「殺…!?」 サンジの顔が青ざめた。 ゾロは一瞬「しまった」と思ったが 「死んだおれの親父も警察官でな」 「………」 「親父に恨みを持った奴に襲われた。親父とおふくろは死におれは生き残った。 生き残ったおれは親父の友人だった先生に引き取られて、高校までここで暮らした」 「………」 「ほら、手桶でまず体を流せ」 サンジの背中から湯をかけてやり、タオルを渡して 「湯船にタオルを入れるなよ。湯が汚れる」 「…こわかったか…?」 「あ?」 低く震える声 「こわかったよな…」 サンジの言葉にゾロは 「そりゃな。怖かったろ。ガキだったからな」 「………」 「もう、覚えてねェ」 殺される その感覚を、この男も知っている 怖くないはずがない…。 「ほら、洗え」 言われるがままに体を洗い、湯船に足を入れる。 「熱いか?」 「…大丈夫」 「我慢しなくていいぞ。ぬるめにしてゆっくり入るのもアリだ。ただ温泉は思うより体が温まる。 油断してるとのぼせるからな」 「わかった」 湯船にゆっくりと体を浸す。 肩まで沈んだ時 「あ〜〜〜〜〜〜…わ、変な声出た」 「はは…やっぱ外人も出るんだな」 「無意識に出たぞ。なんでだ?」 「さァな」 湯船に肩まで浸かるという風呂の文化は日本独特のものだ。 体が肩まで湯につかると、横隔膜が水圧の影響を受けて肺の空気を上へと押し出そうとする。 その時に、あの独特の「あ゛〜〜〜〜〜〜」という声が自然に漏れ出るのだ。 人間ならば大概のものが出すあの声。 熱い湯につかるという風呂文化を持つ日本人だけのものと思われがちだが、 日本の風呂に入れば欧米人も自然と出す。 「なめらかな湯だな…色も青白くて…不思議な色だ…」 「だろ?…お前の国の風呂はどんなんだ?」 サンジは風呂の縁に肘をかけ、顎を乗せながら 「ジェルマの風呂は湯を使わない。サウナが主だ。ロウリュという」 「ほう」 「気密性の高い部屋で石を焼き、そこに水をかけて蒸す。 汗をたっぷりかいたところで白樺の枝で体を叩く。 そうしてから外へ出て夏なら水に飛び込むし、冬なら冷たい空気に体を晒したり、 雪の上に転がったりして体を冷やす」 「それで垢が落ちるんか?」 「…おれが垢まみれに見えるか?」 「いや」 むしろ、ついさっきまで自分の方が垢まみれだった。 サンジの体は染みひとつない。 服を着ているときは腰の細い優男だと思ったが、腕も肩も背中にも、しっかりとした筋肉がついている。 兵士を輸出する国 王子でありながら、兵士としての訓練を施されているのがわかる。 この体は、城の奥で大切に育てられてできる体ではない。 思えばレイジュも、身のこなしや銃の構え方が素人のものではなかった。 「………」 染みはない。 ほくろも見当たらない。 だが、肩や腕、脇腹に、古い打撲の跡がある。 きれいなのに もったいねェ ふと、湧いた。 「――――――――!!?」 ざぶん!! いきなり勢いをつけ、ゾロは湯船に沈んだ。 大きく波立って大量の湯が溢れる。 「ぶわっ!!何すんだ!?テメェ!!」 顔にかかった湯をぬぐいながらサンジが怒鳴る。 ざばあっ!!とまた波を立てて飛び出したゾロは、その勢いで湯船から上がり 「のぼせた!!出る!!」 「あァ!?」 ビチャビチャドタドタと洗い場を抜け、がたつく扉を押し開けてゾロが外へ出て行った。同時に 「ゾロ!ちゃんと体を拭いてから出なさいと!まだそのクセ直らないんですか!?」 コーシローの声。 「や…!ちが…!!」 「サンジくん。浴衣を持ってきました。使ってください。 着方がわからなかったらゾロに教わってくださいね。あ!これ、ゾロ!!素っ裸でどこへ行くんです! あああああ!床がビショビショじゃありませんか!!拭きなさい!これ!」 一瞬の喧騒が遠ざかる。 濡れた前髪をかきあげ、サンジは笑いながら 「ヘンな野郎」 と呟いた。 夜 3人で鍋を囲み、酒を?んだ。 初めて呑む清酒が美味いと、サンジは終始はしゃいでいた。 風土も気候も全く異なる国から来た彼には、何もかもが初めての体験。 浴衣の丈が体に合わず、ゾロが何度も襟足を掴んで乱れを直してやった。 「なんだよさっきからウゼェな!」 「着崩れてだらしねェんだよ!」 「ほっとけよ!気分よく飲んでんのに!」 「それ以上?むな。明日に響くぞ」 「だ〜いじょ〜ぶだよ!こんくれェ!」 「もう、できあがっちまってんじゃねェか…てか、てめェ…てめェに日本語教えた奴は なんだってそんな雑な日本語を教えたか…」 王子様のくせによ。と、心の中であきれながら、ぐい呑みを口元に運びゾロは言った。 サンジは笑い 「いやいや、ブルックはもっと丁寧な日本語を教えてくれたよ。レイジュの日本語は上品だろ? おれ、日本語を覚えた後に日本の映画を観まくったからさ!かっこいいなと思った言葉を覚えちまった!」 「なんの映画だ?」 「タケシ・キタノとかキンジ・フカサクとか」 サンジの答えにゾロとコーシローは同時に「ああ…」と合点しうなずいた。 「ブルックっていうのがお前の家庭教師だった男か?」 と、サンジは急に真顔になり 「…うん…母さんがおれとレイジュにつけてくれた家庭教師だった…」 サンジは酔いにトロンとなった目を細め 「レイジュのピアノとバイオリンの先生だったんだ。 …レッスンの間、母さんがずっとレイジュについているもんだからうらやましくてさ… おれもピアノを習った」 「ほう」 コーシローが 「以前の音楽室にピアノがありますよ。 時々、地元の集まりで小さなコンサートを開くので調律してあります」 「…いや…もう本当に子供の頃なので…ダメです。おまけに酔っぱらいです」 「そうですか…残念です」 少し、別の話をして、また 「ブルックってのはまだお前の国にいるのか?」 ゾロが尋ねた。 「いや…母が死んでまもなくクビになった…もう、そんなものは必要ないってな… その後、国へ帰ると言っていたから…日本にいるんじゃないかな…」 「どこに住んでる?」 「…さあ…どこだったかな…ああ…富士山を見て育ったって言ってたな…」 「富士山…山梨か静岡か…」 ゾロが言ったがコーシローが 「箱根だって富士山は見えますよ?」 「…あえて富士山を見て育ったと言ったのなら、こういう場合は大概どちらかなんだ」 「おや、さすが人間分析ができていますね」 「…からかわないでくれ…」 コーシローがサンジを見て尋ねる。 「会いたいでしょう?」 サンジは笑い、うなずいて 「…でも…会えない…」 「………」 「元気でいてくれたら…それで…」 巻き込みたくはない。 ジェルマとの縁が切れ、穏やかに暮らしているのならそっとしておきたい。 日付が変わる頃、コーシローに促されふたりは宿泊施設になっている2階へ上がり、 やはり教室を改装した部屋に入った。 畳が敷かれた教室に日本的に布団を敷く。 サンジが寝づらいのではと、マットレスを用意してくれていた。 元は教室。仕切りを外せば10人は眠れる部屋だ。 木枠の窓の向こうに月明かり。 「あ」 サンジが声を挙げた。 「サクラ」 窓により、開けて身を乗り出す。 「咲いてたな。ヤエザクラだ」 「綺麗だ…それにゴージャスだ」 しばらく、サンジは窓辺で桜を見上げていた。 「…おれとレイジュが狂わなかったのは…ブルックのおかげかもしれない…」 「………」 「辛い時も悲しい時も…歌おう…奏でよう…そうすれば自然に顔を上げられる…」 「……寝るぞ。夜明け前に出るからな」 「…おう」 桜を背にサンジは笑い、戸を閉める。 「…ゾロ…」 「あァ?」 「ありがとう…」 「礼を言われるようなことはしてねェ。…始まったばかりだ。まだ早ェ」 「…そうだな…」 「寝ろ」 「…ん…」 やがて、穏やかな寝息がサンジの唇から洩れはじめた。 月明かりがカーテンの隙間から入ってくる。 「………」 一昨日の晩の自分を振り返り、まさか2日後にこんなことになっているなどと想像もしていなかったと思う。 「…ん…」 サンジが身じろぎ、寝返りを打った。 ゾロの方に体を向け、心持顎を反らし、薄く唇を開けている。 大切な人 コーシローの言葉がふと甦る。 成人しているのに、どこか少年のようなあどけなさ。 なのに、人を惹きつける艶やかさ。 タクシーに押し入られた時、その魅力が大波のように押し寄せたのだと今になって思う。 この表情と、蠱惑的な声と、しぐさと、気高いオーラ。 これが生まれながらの気品というものか。 そのくせ、ひとたび喋り出せば毒のある、チンピラヤクザが使うような独特の古臭い日本語。 飽きねェ 行けるところまで行くしかねェ だがこれは命懸けの勝負だ。 「…う…ん…」 わずかに眉が寄せられ、少し苦しげな顔になった。 ゾロは思わず手を伸ばし、金の髪を撫で――――そうになった。 「………」 浮いた手の向かう先を失い、仕方なく自分の頭をガリガリと掻いて、ゾロは布団を頭までかぶり、 サンジに背を向けて目を閉じた。 眠れそうにねェ 「……んご〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜…」 と、思ったのは一瞬。 やがて、ゾロのイビキが一定のリズムを刻みはじめた。 ふっ、と、サンジの瞼が開かれた。 「…うるせェなァ…」 漏れた言葉とは裏腹な優しい笑み。 疲れたんだ。ムリもない。 お父さんのいる家に帰ってきて、安心して眠ってるんだ… 「…お父さん…か…」 青い瞳に暗い影が漂う。 無意識に、サンジは手を伸ばし、ゾロの髪をひとつ撫でた。 固い髪 深く眠っているのか、ゾロは身じろぐこともなかった。 あの時 なぜあの場所にお前はいたんだ? あのタイミングで、なぜ? やってくるタクシーに手を上げたお前に、まるで体当たりするみてェに飛びついちまった。 この巡り合わせを 「………」 サンジは目を閉じた。 そして思う。 この巡り合わせを 喜びにできたらどんなに幸せか そして 喜びのままに終わらせる為には 自らの決意を揺らがせてはならない…。 NEXT BEFOER (2017/8/23) 7Days 海へ TOP NOVELS-TOP TOP