　華の名前（1）　

春その花が咲く頃になると、ゾロはひどく辛くなる。特にあの純白のそれを、また似たものを見とめると、目を逸らして足早にそこから逃れた。女々しいのは分かっている。情けないのもこの行為が敗北であることもあれから3度、この花が咲く季節を迎え、送った。ロロノア・ゾロはその日、バイト先である造園屋の副社長に頼まれ、松の『緑摘み』に駆り出されていた。『緑摘み』とは、松の新芽を摘み取る作業で、松の枝を整えるために必要な春の作業だ。技術の浅い者がやる単純作業。だから　「ご苦労さん。つまらん仕事を頼んで悪かったな。」造園業『海王園』の副社長レイリーが、暗い事務所に1人残っていたゾロへ労わるように言った。ゾロは、普段から『凶悪犯ツラ』と言われている仏頂面をわずかも動かさないまま　「…いえ。」と答え、磨き終わった自分の剪定鋏をサックの中にしまい込んだ。　「ロロノア。」レイリーに名を呼ばれ、ゾロは目だけで上司を見た。不遜な態度だったが、レイリーは咎めず　「…頼みたい仕事があるんだが。」　「お断りします。」即答だった。予想通りの答えにレイリーは息をつき、笑って　「…意外にトラウマを引きずるタイプだったか。」　「………。」　「………。」　「…すんません…。」バッグを肩にかけ、ぺこ、と頭を下げて、ゾロはレイリーの脇を行こうとした。とガラガラ軋んだ音をさせ、事務所の引き戸が開いた。　「…こんな時間にすみません。」声が、先に入って来た。造園屋の事務所の造りはどこも似たようなものだ。『海王園』は、この地域では一、二位を争う実力を持っている。県や市の公共事業も手掛けているし、地元や近在、遠方の固定客も多く抱えている。それでも、社長のロジャーがあまり富貴にこだわらない男であるせいか、家族の住む母屋も会社のこの事務所も、まるで掘立小屋のようだ。唯一、レイリーだけが、社の規模と名に相応しい数寄屋造りの家を海王園の隣接地に建てた。接待や、仕事の話は主にレイリー宅で行われる。そのせいで、近所の人々は皆、レイリーの方がここの社長だと思っていた。実際、仕事の引き受け口も交渉口も、全てがレイリーであったから、そう思われても仕方がないのが『海王園』だ。しかも、社長のロジャー自身、まず会社でその姿を見た者がいない。ここでバイトをするようになって1年が経つゾロでさえ、ロジャーの姿を見たのはたったの2回。言葉を交わしたのは1回だ。普段は、国内に限らず世界中を駆け回り、気に入った仕事のみを選んで働くという剛毅さ。そして、それが許される力のある職人なのだと、ロジャーを知る者は皆口を揃えて言った。それはさておきそんな掘立小屋のような事務所の扉の向こうから現れたものに、ゾロもレイリーも、思わず顎を引き、目を見開いた。　「…遅くに申し訳ないです…。」もう一度詫びを言って、軽く頭を下げた。揺れた金が、ゾロの脳裏に何かを過ぎらせる。花がいきなり咲きほころんだと思った。それも　「いや、構いませんよ？何か御用かな？」レイリーが尋ねた。男だ。少女の様な細い顎だが、そこにわずかに柔らかな髭がある。だが肌が白い。薄暗がりでもそれとわかるほど、きめの細かい滑らかな肌だ。そして、ゾロが花の花芯と見た金は、彼の髪の色だった。目も、そのタイプに多いであろう深い青。金の髪の間から見えるその目が、一瞬ゾロを見　「…ロロノア・ゾロ…？」　「………。」誰だ？いきなり、名を呼ばれるような覚えのない相手。　「…よかった…やっと逢えた。」明らかに肩で大きく息をついた金髪の青年は　「探したんだ。」　「…探した…？」青年はレイリーをちらりと見てから、またゾロを見て言う。　「〝樹医〟のロロノア・ゾロ。間違いないよな？」　「！！」ゾロの眉がギリッと吊り上った。一瞬にして、全身を強張らせ、精神を鎧で覆うのがわかった。だが青年は構う事なく　「あんたに仕事を頼みたい。」言い放った。その瞬間、レイリーはゾロの表情を見た。明らかな動揺と戸惑いがそこにある。だが、金の髪の青年は身を乗り出し　「おれのじいさんの家にある樹を、移植してほしいんだ。」　「断る。」瞬殺の即答に、青年はぐっと息を呑んだ。しかし　「…本当なのか…樹医を辞めたって…。」　「ああ、やめた。」ゾロはテーブルの上のバッグを肩にかけ　「…おつかれさんでした。」レイリーに告げ、出ていこうと青年の脇をすり抜けようとした。出口に立っているのだ。そうしなければ、外に出られない。と、青年の白い手が、引き戸にかかりゾロの行く手を遮った。　「調べた！あんた…移植の天才だって…！！」　「…人違いだ。」　「人違いなワケねェ！！」青年は、肩から下げたバッグの中からクリアファイルを引っ張り出し、様々なサイトからのプリントアウト、書籍のコピーなどを示して見せた。　「あんただろう！？これも！これも！！」　「………。」数年前の新聞記事。園芸雑誌、植栽専門雑誌諸々の切り抜き。タウン誌の切り抜きまである。青年は身を乗り出し、さらにゾロの行く手を遮り、押し戻しながら　「…北海道の達子桜…鎌倉の海棠…松代の大楠… 　あんたが移植した樹をいくつか見てきた…。」　「…ご苦労なこった…だが、昔の話だ…。」　「ロロノア！」　「他を当たれ。おれはもう樹医は辞めた。　移植なんざ尚更だ。帰ってくれ。」青年の肩は見た目よりも厚かった。だが、軽く押せば引くだろうと思ったのに、青年はその手を払い　「光雲律院の牡丹。」吐く様に言ったその言葉に、ゾロは凍りついた。やり取りを見守っていたレイリーも、一瞬、肩を震わせた。　「…あんたを知ってる業者が口を揃えて言ってたよ… 　〝ロロノア唯一の失敗〟だって。」　「………。」怒りを露わにするかと見えたが、ゾロは青年の目を真正面から見据え　「そうだ。」　「………。」　「おれはあの木を救えなかった。」　「………。」　「…他を当たれ。」低く沈んだ声で再び言い、ゾロは出ていこうとしたが　「…牡丹なのかね？」レイリーの声が、ゾロの背中を追いかけるように響いた。思わず、足が止まる。　「…藤です。」青年が言った。レイリーが再び問う。　「藤…大きさは？大体の樹齢はわかるかね？」　「樹齢は１８０年…２５０畳あります。」　「２５０畳！？」思わず、ゾロも振り返った。青年がファイルの中から写真を取り出した。受け取り、レイリーは思わず叫ぶ。　「これは…すごい！！」　「…T県S市…『尾田の九尺藤』と呼ばれています。ご存知ですか？」　「…いや…知らんが…しかしこれは見事だ…。」肩越しにゾロが振り返るのがわかった。ゾロの位置から写真は見えない。察しながらレイリーは　「見てみろロロノア。見事な白藤だ。」　「………。」写真を差し出そうとするレイリーを拒むように、ゾロは目を逸らした。　「…これほどの巨木…なぜ移植が必要なのだね？」青年は眉を寄せ、わずかにうつむく。変わった、巻いたような眉毛。睫毛が長い。潤んでいるようにも見える。　「植えられているのは祖父の家で…。」　「ほう。」　「…高速道路が…。」　「…なるほど。」青年は、白い手で自身の二の腕を握り　「いろんな業者に当たりました…でも、すべて断られました。」　「うむ。」　「…家族も親類も…祖父に諦めろと言います。」　「…ふむ…そうだろうな。」青年はゾロへ向き直り　「だが、わかる…じいさんは…伐りたくないんだ…。」ゾロは答えなかった。青年と、決して目を合わせようとしない。レイリーが息をつき　「父祖伝来の樹となると、自分の代で伐るのを忍びないと思うのは当然だ。」青年がうなずこうとした時　「樹自身は、動かされることを望んじゃいねェ。」不意に、ゾロが言った。ようやく、青年と目を合わせ　「意思に反して動かされ、朽ち果てていくくらいなら、　誇りある死を選ばせてやる方がいい。」　「………。」　「お疲れさんでした…副社長。」　「待てよ！！」肩を掴もうと伸ばされた青年の手を、ゾロは瞬間掴んで捻りあげた。　「痛ェ…！！」　「…おい、ロロノア！！」レイリーの声に、するりとゾロの手から力が抜けた。痛みに歪んだ眉が、不思議な形をしている。青年は手をさすりながら一歩下がり、同時にゾロは言う。　「あの牡丹の事を知っていて、よくまぁ、おれなんかの所に来たよな。」　「………。」　「帰れよ。他を当たれ。」ガラガラガラ引き戸は重い音を立てて閉じられた。薄暗い裸電球の下で、青年の髪が震えて見えた。レイリーが言う。　「…すまんな。この１年…彼がここにいる事を知って、　君の様に訪ねてくれる人は多かった。だが、ご覧の通りだ。」　「………。」　「どれほど金を積まれても、どれほど頭を下げられても、あの調子だ。」　「…負け犬野郎…。」　「手厳しい。」低く笑って、レイリーはポケットからウィスキーの入ったスキットルを取り出し、キャップを捻り、口元へ運びながら　「難しい仕事だが…よければ職人を…いい樹医を紹介しよう。」　「…ありがとうございます…でも、いいです。」　「諦めるのか？」レイリーの問いに青年は　「あきらめません。」ゾロが消えた引き戸の向うを睨みつけながら、脇に降ろした拳を青年は固く握る。やがて、レイリーに向き直り　「また、来ます。」　「そうか！」表情を輝かせ、レイリーはまるで吹き出すように言った。　「ああ、君。よかったら、名前を教えてもらえないかね？　できれば、樹のある場所の住所と連絡先も。」　「…ロロノアを…説得してくださるんですか？」青年の問いにレイリーはまた笑い　「説得してほしいかね？」　「いいえ。自分でやります。」　「あっはっは！いい答えだ！」事務所の電話脇のメモを取り、ボールペンをカチリと鳴らす。　「T県S市…尾田町３－２－５５…祖父の名はブルックと言います。」　「君は？」　「サンジ…です。」青年―サンジ―は、ようやく笑った。アパートへの道、歩きながらゾロは一度だけ深く息をついた。自分でも、情けないとわかっている。３年も前の、たった一度の失敗。だがゾロのプライドを、自負を、培ってきた技術を、そして心を、へし折るには十分な失敗だった。青年が言った光雲律院というのは、北陸のある地方都市の寺だ。四季折々に様々な花を随所で咲かせる「花の寺」として有名だった。ある年、その地方を巨大クラスの地震が襲い、液状化で被害を受けた。当時、若くやり手の樹医として名を馳せていたゾロは、ボランティアとして現地に入り、公園や各施設の傷ついた樹木の『治療』にあたっていた。その中で、出逢ったのが光雲律院の白牡丹だった。季節はおりしも春。牡丹は見事に咲き誇っていたが、砂のように崩れ、粘土状になった土をかぶり、ゾロが見た時は見るも無残な姿になっていた。助けてやってほしいと、住職の妻に手を合わせて懇願された。幼くして亡くなった息子が大好きだった花なのだと、泣いて訴えられた。いつものゾロなら、二つ返事で「任せろ」と答えた。だが、言えなかった。牡丹は古木で歳を経ていた。花の盛りにダメージを受けた。樹勢の不安が大きい。しかも見たこともない形の葉、そして花。その牡丹、名を『白蘭清風』清朝の皇帝が愛し、北京の故宮の中でのみ栽培が許されていたという、珍種中の珍種だった。花の咲き方も、葉も、木の枝、肌も、何もかもがゾロの知っている牡丹と違う。決して大輪ではないが、八重に開いた白い花弁は新雪の様に輝き、絹のようになめらかで、一片の染みもない。花央にある雄しべの色は黄色を越えて黄金に光り、真珠の様な雌しべを囲んでいた。触れると、まるで赤ん坊の肌の様な花の滑らかさが伝わってくる。芳醇な、それでいて清々しい香り。あの花を、初めて目にし、触れた時の感動を今でも覚えている。そしてその華麗な花が泥にまみれてしまった無残な姿を見て、心がひどく傷んだことも。救えると信じた。自分にはその技量があると自惚れていた。再び、今度はもっと美しい姿で、咲かせてやるのだと思い上がっていた。だが花は咲かなかった。再び、『白蘭清風』が花開くことはないと、ゾロが告げた半年後、住職夫人はこの世を去った。地震の後、ずいぶんと気弱になってどんどん衰えていった。せめて『白蘭清風』が咲いてさえくれたなら住職夫人の遺族、周囲の人々、ゾロに感謝していたはずのその町の人々、皆、ゾロを責めた。町の誇りでもあった牡丹を枯らせてしまい、気の毒な女性の死を早めたのはゾロだと。中には、元々が自然災害なのだからと言ってくれる人もいるにはいたが、不安を抱きつつも「任せてください」と自信たっぷりに言ったのはゾロ自身だ。人の悪口など元より気にする性格ではなかったが、自分の技術がまったく及ばなかった無力さに、ゾロは打ちひしがれた。正直、思い上がっていた。日本の各地に望まれて赴き、移植をし、手を加え、称賛されることが続いたせいで、何処か天狗になっていたのだと気づいた。　「樹ってのはな、本来ならそこに根を張ったらそこが終の棲家なんだ。　自分から動きたいと願う樹なんかいるワケがねェ。」たった一度海王園の社長・ロジャーに会った時、言われた言葉だ。まったくもってその通りだ。樹というものはそういう物だ。本来ならば、人間の都合でむやみやたらに動かしていいものじゃない。　「…藤か…。」立ち止まり、思わず呟いていた。『尾田の九尺藤』　聞いたことはある。満開の様子は、絹のシャンデリアのようだと、夜のそれは満天の星が降るようだと。そうか人間の都合でジャマにされるのか気の毒にだが　「…関係ねェ…。」世の中は不景気で、バブルの頃には溢れんばかりにあった造園屋の仕事もめっきり少なくなった。あの頃は、木も花も何もわからないド素人が、半ば投資目的に高価な盆栽を手に入れたり、権力誇示の為に豪勢な庭を作ったりしてくれたおかげで、当時の若い職人はそこそこの修行を終えるとさっさと独立し、看板を掲げたが、泡沫の夢が消えた後は、そんなにわかな造園屋は次々と廃業に追い込まれていった。膨大な維持費のかかる庭や盆栽も、邪魔なものにしかならなかったようで、「売りたい」という所有者から、ロジャーはどんどんそれらの品を買い取り、庭の名石や銘木を引っこ抜き、一時海王園の養成林や温室は数々の品で溢れんばかりになった。しかし、バブル期に高値で取引されたものでも、手入れに手間がかかり枯らしてしまえばおしまいという高いリスクを背負っての商売だ。誰もが、お人好しな海王園の仕事ぶりを笑ったが、バブルが弾けて10年後、時期がやってきた。海外での空前の盆栽ブームが始まった。結果、養成林の樹木、温室の盆栽は高値で海外へ取引され、歴史的価値の高い盆栽などは、所縁の自治体や企業が慌てて買い戻した。社長のロジャーが自分の好き勝手をしていても、海王園はそう簡単には傾かない。先見の明と人は言うが、レイリーは違うと笑って言う。　「要らねェなどとふざけた事を言いやがるから、だったらおれに寄越せというだけだ。　そして、他に欲しいという奴がいるならくれてやる。それだけのこと。」ゾロは、幼い頃そんな海王園の仕事ぶりに出会った。通っていた剣道場の、師範の家の庭を手入れしている職人たちを見た。誰もかれもが真剣で、鋏を操り、美しい仕様を作り上げていく姿に魅かれた。その家の仕事が終わる頃、レイリーに言った。「弟子にしてくれ」とだが、レイリーは笑って　「君が知るべき事を知り、学ぶべきことを学んでから来なさい。」そう言った。ゾロの決意は固かった。農業高校を出て、再び海王園に頼み込みに行ったが、断られた。諦めきれなかった。なぜ断られるのかもわからなかった。悔しかった。さらに上を、上をと望み、別の造園業、盆栽業を渡り歩くうちに樹医の仕事に興味を抱き、資格を取り、腕を上げ、これならもう文句はないだろう。そう思い始めていた。いや、海王園に執着していた自分さえ、忘れはじめていた。そんな時の『白蘭清風』との出会いだった。打ちひしがれ、心が折れ、荒れたゾロの元にレイリーの方からやってきた。　「ウチへ来なさい。アルバイトでよければ。」その時初めて分かった。自惚れていた自分を。樹医で名を馳せていた頃も、ゾロは決まった住まいを持たなかった。決まった住まいを持っても、まず帰る事がない位に忙しかったからだ。今住んでいるこのアパートも、家具家電つきの短期契約。しかし、樹医の名を捨てて海王園のアルバイトになってから、このアパートに住み続けて1年半になる。荷物が多いわけではないが、決して整っているとはいえないワンルーム。足元にドサッとバッグを投げる様に置き、上着を脱ぎ捨て、そのまま万年床のベッドに横になる。　『…あんたを知ってる業者が口を揃えて言ってたよ… 　〝ロロノア唯一の失敗〟だって。』青年の声が甦る。汚れた名、砕かれたプライド、折れた心情けないのは分かっている。己を恥じる心もある。だが、どうしても　「………。」純白の牡丹だった。泥をかぶっていない枝についた花の美しさは、それまで見たこともない華麗さだった。もっと早く、美しく壮麗に咲いていた姿を見たかった。瞬間そう思った。あの花の声を、おれはついに聞けなかった。あいつあんなに暗い場所だったのに、一瞬光を放って見えた。花が咲きほころんだと思った。あの牡丹が、『白蘭清風』が、人になってゾロの前に現れたのかと思った。そして、その口から『光雲律院の牡丹』という言葉が出た瞬間　「………。」もう、この男に会いたくないと思った。　　 NEXT 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（2013/6/8）華の名前‐TOP NOVELS-TOP TOP