許される時代に生まれたかった。 それでも出逢い、心を交わせたことは幸福だった。 決して忘れない 絶対に捨てない この哀しみが癒される日など来ない いつか なんて、決して来ない。 この想いは、千の夜を、一億の夜を、百億の夜を越えても消えない だから 百億の夜を越えても、許される時が来たなら 必ず お前に伝えに行く 藤の季節が終わった。 T県S市尾田月殿、『廣澤尾田倶楽部記念公園』の園長ゾロは、 緑の葉に覆われ、藤豆がたわわに実り垂れ下がった棚の下で、 細々とした雑草を抜く作業をしていた。 「…なァ、ゾロ。」 「あァ？」 顔を上げもせず、茶を運んできたサンジの呼びかけに、ゾロはぶっきらぼうに答えた。 サンジは鉈のような形の莢に触れながら 「毎年見る度思ってたんだが…この豆食えるのか？」 「はァ？」 ゾロが顔を上げた。 サンジが手にしているものを見て、ゾロは眉を寄せて顔をしかめた。 花が終わると、藤棚からブラブラと垂れ下がっている莢を見た事のある人は多いだろう。 あきらかに、種子を包んでいるとわかる形。 触れるとそこに、大きな豆が包まれているのがわかる。 もう少し莢が黒ずむと中の豆は固くなり、割ると、中から黒い斑な模様の豆が現れる。 毎年、それを土に植え、実生から苗を育てて、市民に無料配布するのもゾロ達の仕事だ。 サンジが言っているのは、その藤の種の事だ。 「食えるぞ。」 ゾロが答えると、サンジの表情がぱぁっと明るくなった。 「へェ！食えるんだぁ！？…花豆みてェに煮て食うのかな〜試してみよう！」 「死ぬけどな。」 「あァ！？」 振り返りもせず、ごみ袋の中の雑草をザッと押し潰し、ゾロはさらりと言う。 「ま、そこまで強くはねェが毒がある。昔は下剤に使ってたらしい。」 「それを聞いてるんだよ！食えねェじゃねェか！！」 「食うには食えるから、食えると答えたまでだ。」 「……まさか…てめェ食った事ある……？」 ゾロは少し考え 「…ブルックが、戦後の食糧難の時に食ったと言ってたんだ。」 「！！」 「…食いすぎて、腹を壊してエライ目に遭ったとよ。」 「……ああ…なるほど……。」 「大して美味くもねェ。」 「…食ったね、お前？」 「………。」 小さく笑い、サンジはぐるりと辺りを見回して 「…平日となると、さすがに客は少ねェなァ。今日は遠足のガキもいねェし。」 「静かでいい。」 「園長のセリフじゃねェなァ。」 『園長』という役職にありながら、ほとんどの執務は副園長任せ。 自分は専ら職人としての仕事しかやらない。 『廣澤尾田倶楽部記念公園』が開園してから今年で5年。 ゾロとサンジが、ブルックの家で共に暮らし始めてから5年。 「尾田の九尺藤」は、あの「世紀の大移植」から5年を経て広さは220畳を越えた。 伐採の話が進んでいた頃、「もうすぐお迎えが来る。藤と一緒に逝く」と 言っていたブルック老人は、5年経った今でもピンピンしている。 かえって、若返って元気になったんじゃないか？とウソップが呆れるくらい矍鑠としている。 花の季節になると、この5キロ先のインターチェンジから渋滞が発生するほどに人が訪れるが、 藤が終わればさすがに来園客は少なくなる。 それでも、ツツジ、サツキ、アイリス、菖蒲などを楽しむ人が訪れ、 季節柄地元の幼稚園や保育園の園児たち、小学生らが遠足にも訪れるので、公園はいつも賑やかだ。 この春に、『旧廣澤尾田倶楽部銅山歴史館』は、旧ブルック邸の隣接地に新しい展示館を竣工した。 秋から、銅山の歴史を振り返る記念展示を行う事になっている。 「サンジ。」 ロビンの声。 いつものように見上げると、歴史館2階の窓からロビンがこちらを見下ろしていた。 「話があるの、ちょっと上がってもらえる？」 「ああ、今行く！…ゾロ、冷めないうちに呑めよ。」 「おう。」 歴史館館長ロビンの執務室は、その昔はブルックの祖父の書斎であり、 今は高速道路になった土地にあった頃はゾロの部屋だった。 「なんだい？ロビンちゃん？」 「見てもらいたいものがあって。さっきメールに添付されて届いたわ。」 ロビンは魅惑の笑みを意味ありげに浮かべて、サンジにプリントアウトした1枚の写真を差し出した。 「…何…？」 「…例の時計を…分解修理に出したでしょう？」 「…ああ…。」 ロビンに預けた、曾祖父がブルックの祖父に渡した約束の懐中時計。 1年前に突然動かなくなり、職人を探し回って見つけ出し、修理を依頼していたが。 「ポーセリンの文字盤を外したら…出て来たらしいわ。」 「………。」 写真は、小さな文字盤を拡大したものだった。 文字が書かれている。 日本語だ。 「文字盤の裏側だそうよ。」 「……そう……。」 ロビンは微笑み 「…元々持っていたものを渡したのではなく… わざわざ作らせた物を渡していったのね。…発見だわ。」 サンジの目に、わずかに涙が滲む。 言葉にすることを禁じられた想いを、そこに籠めて 「…いつ戻ってくるかな？」 「あと1か月ほどでできるそうよ。また組み立てるより前に、 これは知らせた方がいいと思ってと仰っていたわ。 …もし現物を見たいなら、言ってくださいって。」 「そう…ありがとう。…うん、ちょっと考えさせて。」 「ええ、伝えるわ。」 懐中時計の文字盤の裏側。 磁器のそれに焼き付けられた日本語。 「………。」 漢字とカナで書かれた文字。 『百億ノ夜 我 君ヲ想フ』 「百億の夜。」 思わず呟いたサンジに、ロビンが言う。 「百億の夜を越えて、あなたはここにやって来たのね。」 「………。」 「そして、永遠の人に巡り会った。」 サンジの頬が染まる。 ここで暮らし始めてしばらくした頃、ある夜ブルックがポツンと言った。 酒が入っていたから、酔いも手伝っていたのだろう。 「ワタクシねェ、ゾロさんは祖父の生まれ変わりだと信じてるんですよォ〜。」 その言葉に、ゾロは仏頂面で「んなワケあるか」と吐き捨てた。 年寄りは、かなりの高確率で同じ話を繰り返す。 この日も、ブルックはその例に漏れなかった。 「ワタクシねェ、ゾロさんは祖父の生まれ変わりじゃないかと信じてるんですよォ〜。」 「……まぁた始まった。いい加減にしろ。」 ゾロが、泡の消えたビールを呷りながら言った。 ブルックは、細い体を右に左に揺らしながら 「そうだとしたら…嬉しいじゃありませんか〜〜 100年の想いが叶えられたのですから〜〜〜ねぇ〜〜〜サンジさぁ〜〜〜〜ん。」 「ハイハイ、わかったわかった。もう寝ろ、じいさん。」 「あと一杯！あと一杯だけ！」 「ダメだ。」 「いけずぅ〜〜〜。」 サンジに背中を押されながら、ヨロヨロと立ち上がりながらも結構足取りはしっかりしている。 「おやすみなさい〜〜〜〜。」 「おう。」 この家で、当然のような顔をして、赤の他人が3人一緒に暮らしている不思議。 以前のような広い家ではないが、人の気配が近くて暖かい。 ブルックは、この歳になるまで一度も妻帯しなかった。 自分もひとり息子であり、死んだ父親も祖父の養子で他に身寄りはなかったから、係累は全くない。 寂しいまま生涯を終えると思っていたら、突然サンジがやって来た。 祖父が、生涯愛し抜いた相手の曾孫が。 ブルックが、サンジを実の孫のように思うのは自然な事だった。 だから、サンジがゾロと生活を始める事を聞いた時 「ジジィがお邪魔でなかったら、この家で暮らしませんか？」 と、申し出てくれた。 それに対しサンジも 「そう言ってくれるのを待ってた。」 と、いたずらに笑ってうなずいた。 黄昏を迎えて、ようやく得る事ができた『家族』 「なァ、じいさん。」 ブルックを寝室に送り、サンジは 「…じいさんのじいさんは…やっぱりアイツみてェに頑固だったか？」 アイツ、がゾロを指していることは、少し酔いに痺れた頭でもわかる。 「ハイ、そりゃぁもう！頑固一徹の人でした！！」 「はは…。」 「でも、優しい人でした。」 「…そか…。」 「似てますよ。」 「…ハイハイ…。」 「あ。その目、信じてませんね？」 首をかしげ、サンジは笑った。 「おやすみ。じいさん。」 「ハイ。オヤスミナサイ！あ！サンジさん！」 出て行こうとするサンジを呼び止めて、ブルックは言う。 「サンジさんのひいおじいさんも、きっと頑固な方だったのでしょうねェ。」 「……なんで…そう思う？」 「だって、周りにどれほど勧められても、生涯おひとりを貫かれた。」 「………。」 ブルックは、ひとつ小さく息をつき 「…半端な覚悟で…ひとりで生きることなどできませんよ…。」 「…じいさん…。」 「…事実ワタクシは…あなたが来るまで寂しかった…。」 「………。」 「友人はおります。季節になれば、藤の木の下に大勢の人が集まってくれます。 それでも、やはり寂しかった。家族が欲しかった。」 サンジは、行きかけていた歩みを戻し、ベッドに腰掛けたブルックの隣に座った。 「…深く熱く…激しい愛だったのでしょう…それはわかります… けれど…愛だけで…思い出の愛だけで…生きていけるほど人生は甘くない… 増して…戦争という暗い影の時代を…2回も越えて…。」 「…うん…。」 「…2人とも…きっと頑固で強情で…一度抱えた信念を曲げる事をしない… そんな人達だったのでしょうね…。」 サンジが、ポン と、膝に置かれたブルックの手を叩いた。 「…あの世に行った時…どっちがその寂しさに耐えかねて根負けした…って、 言ってやる気満々だったのかもな？」 「ヨホホホホホホホ！！かもしれませんね！…ええ…祖父は… そういう意地悪な所、ありました！」 「…はは…確かに、ゾロだな。」 「でしょう？」 声を潜めて2人で笑い 「サンジさん。」 「ん？」 「ワタシ、幸せです。」 「うん…おれも、幸せだ。」 「よかった。」 「………。」 「…よかった…。」 ひとつあくびをして、ゾロは背筋を思いっきり伸ばした。 そろそろ寝るか。 腰を浮かし、空のグラスと皿を手にした時だった。 「ゾロ！！ゾロォ――！！」 奥から、サンジの悲鳴のような声がした。 体が反射的に声の方向へ跳ねた。 「じいさん！じいさん！！おい！ウソだろ！？しっかりしろよ！おい！！」 ブルックの部屋に飛び込んだゾロが見たのは、骨の様にくったりとしたブルックを抱えた、青ざめた顔のサンジの姿。 「ブルック！？」 「じいさん！じいさん！！」 静かな夜の住宅街に、救急車の赤い光が映えたのは、それから約１０分後の事だった。 救急病院に着き、着くまでの間も、ゾロとサンジはいろいろな人に年齢を始め あれこれとブルックの事を質問されたが、2人が答えられるブルックの事など正直何もなかった。 いぶかしんだ救急隊員が警察にまで通報し、夜中であったが サンジがロビンに連絡を取ったことで、ようやく怪しい疑いが晴れた。 「�狄抜鵑蠅里覆せ饂魂箸力型預陲貌�り込んだ怪しい二人組�瓩隼廚錣譴燭蕕靴い錙�」 「…んだと…？」 どこかからかう様なロビンの言葉に、ゾロが眉を吊り上げた。 サンジがなだめる。 「よせ、ゾロ…そりゃそうだ…おれ達は他人なんだから…。」 「『廣澤尾田倶楽部記念公園』の園長副園長ですって、 ちゃんと名乗ればよかったのに。」 「そんな余裕なかったよ…。」 ブルックの病状は、軽い心筋梗塞という事だった。 年齢が年齢だ、無理はない。年齢から考えたら、驚くくらいに元気だった。 2、3日様子を見るが、すぐ家に帰れる。明日にはもう、リハビリも始めるという。 本人は「帰りたい」と言ったが、サンジにたしなめられて引き下がった。 かなり、落ち込んでいたが…。 「明日、また来るからな。」 微笑んで、出て行こうとするサンジにブルックはようよううなずいた。 ゾロが 「ちゃんと寝てろよ。」 言って ブルックの頭をポンポンと叩いた。 「………。」 じゃ、と言葉を残し、2人が去って行く足音を聞きながら、ブルックはまた少し泣きたくなった。 幼い時を、ふと思い出した。 藤の豆を食べて腹を壊したブルックの頭を、祖父が笑いながら叩いた。 『ちゃんと寝てろよ』 今のゾロの声が、その時の祖父にあまりに似ていて。 物心ついた頃の祖父と両親の記憶は、いつもぶどうの樹の下で働いている姿だった。 父も母も穏やかな人で、農作業はいつも穏やかに日暮れていったような気がする。 祖父は口数の少ない人だったが、曲がったことが大嫌いだった。 些細な嘘やごまかしはこっぴどく叱られた。 朝、縁側に行くと、祖父は庭で木刀を振るい、夜になると、 縁側に座って藤の木を眺めていた。 寂しくなかったはずはない 辛くなかったはずはない その理由を大人になってから知った時、なんとしてもその方と祖父を、 もう一度逢わせてあげたいと思った。 だが、世界を巻き込んだあの大きな戦の中、ついにそれを適えられなかった。 ようやく平和になったのに、祖父は終戦の翌年に突然倒れ、そのままこの世を去った。 そして、祖父の相手の方も、その半年後に亡くなられたのだとサンジさんに聞いた。 まるで、約束をしたかのように、さして時を違わず…。 ねェ、ゾロさん、サンジさん。 ワタシが勝手に、そう思うのはよいでしょう？ あなた方は 出逢うべくして出逢い、想いを交わし合うさだめだったのですよ。 ねェ？そうでしょう？ 信じて、いいでしょう？ 『日本』という国の名を、初めて聞いたのはその年のノエルの頃だ。 その日の雪は激しく、もう外は日も落ちて暗かったのを覚えている。 母が 「…そんな地図にもないような国に、行かれると言うのですか？」 と、呆れたような声で言った。 帰宅し、ようやく人心地ついたという表情で、暖炉の前の肘掛椅子に 深く腰掛けた父は、言葉もなくうなずいた。 「3年の契約だ。」 「…まさか…もう引き受けられたのですか！？」 母が詰め寄った。 姉が、困ったような顔で自分を見た。 「政府からの依頼だ。断ることはできん。」 「そんな…そんな、どこともわからぬ東洋の島国…。」 姉が言う。 「…お父様…日本という国はまだ政情不安で…欧米人を 忌み嫌うものも多いと聞くわ…そんな国に…いくらご命令でも…。」 父は、軽く手を上げ言葉を遮った。 「行くと決めた。3年だ。」 「…あなた…！」 「アレクサンデル。」 父が、不意に自分を呼んだ。 それまで、両親と姉のやり取りの成り行きを見守っていた青年は、いきなり名を呼ばれ背筋を伸ばした。 「来るか？」 「………。」 その言葉に、母がいきり立った 「そんな…当主であるあなたと後継たるこの子共に、 そんな得体のしれぬ国へ行くというのですか！？」 「得体のしれぬ国ではない。生まれたばかりとはいえ国家だ。 暮らしているのは人間だ。」 「…東洋人は下品で野蛮な人種ですのよ！？」 「少なくとも、おれが会った日本人は極めて賢い、紳士的な人物であったがな。」 姉が、アレクサンデルと呼ばれた弟の頭を引き寄せ、抱擁した。 「…でも、お母様…日本へ行けば…この子は国王様からのお召しを逃れられるわ…。」 「……！！」 母が、ハッと息を呑んだ。 「…姉さん…。」 きゅ と、頭を抱く姉の手に力が籠る。 母が、深くため息をついた。 父が 「……息子を男妾にしたくはあるまい。」 しばらく黙り、母はうなずいた。 ルター派の教会員である母にはとても耐えられない、国王からの招請。 この時代、まだここヨーロッパでのドイツ統一は成されていない。 「ドイツ」という概念はあったが、小さな国家がそれらを形成し、 時に講和し時に争い、混沌とした時代を送っていたといっていい。 彼ら家族の生まれたバイエルン王国はそのひとつであり、時の国王は 後に『狂王』と呼ばれるルードヴィヒ2世であった。 このルードヴィヒ2世 『狂王』の名に相応しく、夢見がちで現実逃避甚だしく、奇行が目立ち、 さらに女性に全く関心を示さず美青年を愛するという性癖を持っていた。 その男色の国王に、貴族ローゼンバイン家の嫡男、アレクサンデルが見初められた。 ある夜会で言葉をかけられてから、毎日のように、ノイシュヴァンシュタイン城への招待を促す使者が訪れる。 様々な理由をつけて、断り続けるのももう限界に近かった。 一度招きを受けてしまったら、「それ」を承諾したものとしてその日の内に閨にも招かれるだろう。 敬虔なルター派の家に生まれた彼らには、そんな行為は耐えられなかった。 国王に見初められたのだ。 伝統と格式ある家とはいえ、今では貧しい暮らしの下級貴族。 本来なら、喜ぶべきことかもしれない。 だが、どうしても…。 「行く。」 息子の、力強い答えに父は大きくうなずいた。 姉が、弟の背中を抱きしめる。 立ち向かうには大きく、逆らうにはあまりに無謀な「敵」。 逃げるような真似はしたくなかったが、つい先頃婚約の決まった姉や、 軍の騎兵隊長であるその姉の婚約者の障りになりたくはなかった。 初恋の幼馴染に望まれての結婚だ。妨げになりたくはない。 後学の為、父の手助けの為という理由なら、さすがの王もあきらめざるを得ないだろう。 何より、他にもっと興味の対象となる美しい青年が現れれば、自分のことなど忘れてくれる。 バイエルン貴族であり、精錬技師のゼフ・フォン・ローゼンバインが、 その嫡男のヴァルター・アレクサンデル・フォン・ローゼンバインを伴って、 香港を経由して日本の横浜に向かう船の人となったのは、年が明けて間もない寒い冬の日の事だった。 日本という国に、何の興味もなかった。 東洋の、地図の端にかろうじて記載されているような小さな国。 隣の中国に比べれば、なんとか細くみすぼらしい。 宮廷に仕える中国人の奴隷を見たことがあるが、日本人もおそらく、 背は低く、肌は黄色く。目は針のように細いのだろう。 200年近くも国を閉じ、外海の進んだ技術や学問に目を閉ざし、 今さらのように西洋列強に追いつこうと悪足掻きをしている愚かな国。 3年 3年耐えればいい。 そう、思っていた。 まさか そんな風に自分が侮っていた国に 自分の運命を定めるような力があるなどと、夢にも思っていなかった。 「日本」がようやく世界に目覚め、国を開き、その可能性と好奇心とを 一気に爆発させた『文明開化』真っ盛りの頃。 その遅い流れが、ようやくこの田舎の山奥にも注ぎ始めた。 尾田の雑木林を切り拓き、地を均(なら)し、そこにかつて見たこともないような形の建物を 銅山主が建て始めたのは、彼が10歳になったばかりの頃だった。 建物は約1年で出来上がり、そこに向かって何台もの俥(人力車)が連なって行くのを、 大人や子供に混じって見送ったのを覚えている。 先頭を行く、黒い煙を吐き出しながら轟音を立てて走る馬の無い馬車に、 仰天してひっくり返った老人がいた。 俥に身を預けているのは、いずれも煌びやかな洋装に身を包んだ男女で、 それらが終わるとその後から、若衆や芸者衆が、打ち鳴らした太鼓や笛に合わせて粛々と進んでいった。 その日の夜、コーシローが「ご祝儀が出ましたよ」と言って、紅白の饅頭をくれた。 包みに二つ並んだそれを、どちらも食べていいとコーシローは言ったが、 紅い方を彼に押し付けると、初め躊躇い、それでも「ありがとうございます」と恭しく受け取った。 時代が変わり、旧時代の身分などもう何の意味もないと言うのに、この律儀で忠義な男は、 主君から預かった庶子の自分に今でも「家臣」として仕えてくれている。 しかしコーシローは、この時代にその忠義が無駄であることをしっかりと理解していた。 村の者たちには、この10歳の子を自分の子だと言っていた。 本当の身分を明かしてはいない。 明かしたところで何の意味もなく、かえって生き辛いだけの世の中だ。 事実、彼らは誰よりも親子だった。 母親のいない彼らを、余所者でありながらも村人たちは労わり慈しんだ。 山男ばかりの村であり、男も女も、老いも若きも、気性は激しく荒かったが心は優しい。 寂しいとも、辛いとも、思ったことは一度もなかった。 ここより少し離れた北の、海に面した小藩は、戊辰戦争の折幕府方についた。 官軍に攻められ降伏し、併合され、藩主はその座を追われて江戸に送られた。 下屋敷に住んでいた藩主の側室と近臣はそのまま在住を許されたが、 やがて訪れた廃藩置県でそれさえも失った。 東京と名を変えた江戸で、蟄居の日々を送っていた父はそれから間もなく死に、 後を追うように母が死に、天涯孤独になった子供を教育係であったコーシローが引き取った。 明治と元号が改められ、江戸城に京から天皇が遷御した時、主君の子は3歳だった。 彼が、最後の藩主であった父からもらったのは、命と、ゾロという名前だけだった。 生きねば。 その為に、コーシローは流れ歩いて辿り着いたこの銅山の町に腰を据え、刀を隠し、工夫となった。 山で働く者の寿命は短い。 現代の様に、労働者の健康管理や鉱毒による被害に心配りなどされてはいない。 落盤事故も多かった。 剣術師範であり武士であっても、貧乏小藩の宿命で野良仕事は幼い頃からやっていた。 それでも、毎日暗い穴に潜り、冷えた洞窟で水を浴び、 鉱毒を浴び取り込み続けていれば肉体は衰えていく。 育ての親を、ゾロは１４で失った。 今わの際に、ようやく「親父」と呼ぶことを許された。 「父」は泣いてうなずき、息を引き取った。 そして弔いの翌日から、ゾロも鉱山に入った。 生きろ と、言い残した「父」の言葉に従い。 給金を受け取るのは3日に一度。 受け取るや、人足仲間は麓の遊里や酒場に下りて行く。 家族のいるものは、そんなひとり者どもの誘いを必死に断って、 給金を懐深く仕舞い込み、人足長屋へ帰って行く。 小金が入れば、気持ちが大きくなるのはゾロも同じで、 誘われるままに酒を飲み、また女と寝る事もした。 コーシローは、適うならゾロにはこの山を下りてほしいと常に言っていた。 その為に学も与え、剣術も叩きこんできた。 だが 「今さら。」 と、ゾロは思う。 もう、そんなものがなんの役に立つ。 「三河以来の譜代」「由緒正しき」「世が世なら」と、コーシローは言ったが、 世は、もう徳川の時代ではないのだ。 現に、今、ゾロ達に労働報酬を与えている廣澤男爵は長州藩の出だ。 中央は旧薩長閥で占められ、学があろうが剣ができようが松平の血を引いていようが、 そこに割り込むことなど一生かかってもできはしないのだ。 ならば 今得た糧で、目の前の欲を満たして何が悪い。 このままこの銅の町で、やがて鉱毒に犯され朽ちていくのも人生。 それでいい そう、思っていた。 「ああ、お前、ちょっと待て。」 3日分の給金を受け取り帳簿に名を入れた後、庶務頭がゾロを見てぞんざいに手招いた。 「…なんすか…？」 「…事務所に来る前に泥を落としてこいと言っとろうが…。」 庶務頭は顔をしかめながら言った。 「風呂、満員なもんで。」 嘘ではない。 夕方、穴から這い戻った人足で浴場は溢れかえる。 とりあえず、足の泥だけ落として混む前にと支給所へやって来た。 「まぁ、いい…お前…確かゾロといったな？」 「はい。」 「尾田倶楽部で男手を探している。庭仕事だが明日から行ってくれ。」 聞いて、ゾロは顔をしかめた。 「庭仕事…？」 「…穴に入るよりは楽だぞ？なんだ？不満か？」 ゾロは、まだ水気の残った首筋を手で拭い 「…おれなんかでいいんですか？」 庶務頭は小さく笑い 「他の人足じゃ、お偉いさんトコになんざやれねェ。しかも異人さんだ。」 「………。」 「お前さんは、人足の割にゃ品がある。学もある。 …ま、お世辞にも愛想はいいとは言えねェけどな。」 「………。」 「おれの顔を立ててくれ。なに、穴の底よりキツイ仕事にはならねェよ。」 「…そりゃそうだ…。」 笑い、ゾロは小さく頭を下げた。 翌日、ゾロは庶務頭に連れられ、尾田にある『廣澤倶楽部』と呼ばれる洋館に赴いた。 幼い頃、この館が出来た時にコーシローと遠くから眺めた。 ゾロの手を握り、コーシローが大きく息をついたのを覚えている。 父は感じていたのだろう。 ひとつの時代が終わり、倫理も道徳も、正義も、何もかもが180度変わってしまったことを。 白い壁の、美しい建物だと思った。 背後に山を背負い、南側の谷には清らかな流れがある。 大きなガラス窓 白い柱 見たこともない石畳 屋根には変わった形の瓦が葺かれている。 広大な庭 「採掘場から参りました。」 通用口で告げるとすぐに、奥から黒い背広姿の男が現れた。 白い顔、細い顎、油で固めたのであろう総髪が黒々と光っている。 男は、銀縁の眼鏡を奇妙な仕草で上げると 「お伝えする。直接庭へ回れ。」 ぶっきらぼうに言った。 「へェ、では、お邪魔いたします。」 庶務頭が深く頭を下げ、ゾロを小突いた。 たまたま、飾り窓をボーっと見上げていたので、思わず前につんのめった。 眼鏡の男が、バタンと扉を閉めた音がした。 庶務頭が言う 「通訳の黒木…いけすかねェ野郎だ。おまえもアイツには気をつけな。 蛇みてェにねちっこい野郎なんだ。」 「………。」 「人足なんざ、人間じゃねェと思ってる。」 軽くうなずき、屋敷をぐるりと庭へと回った。 木戸を開けた瞬間、ゾロは目を瞬かせた。 白 一面の純白に、目が眩んだ。 その輝きに、目を眩ませたのはゾロだけではなかったらしい。 庶務頭も、目を擦っていた。 「………。」 白い群舞の正体は、庭一面に咲く花々だった。 季節は秋 初秋に咲く白い花が、庭一面を埋め尽くしている。 菊、時計草、茶の花、ホトトギス、そして銀木犀。 蝋のように光る葉の狭間で咲き誇る銀木犀の香りが、一筋の風に運ばれてゾロの体を包む。 清々しい、だが甘い香りに、思わず深いため息をついた。 だから そこに立っていたのが、人だと初めわからなかった。 咲き誇る花々のような、純白の人形。 人と認識することができなかったのは、それがゾロが初めて見る種類の人間だったからかもしれない。 だが、それは生きて、動き、形の良い唇が滑らかに動き 「Guten Tag。コンニチハ。」 初めの言葉は訳が分からなかったが、「こんにちは」と、言ったのは分かった。 なんとも美々しい。 どことなくなよやかであるが女性ではない。 男だ。 だが、「天使」という言葉をその時のゾロが知っていたなら、きっとこう思ったに違いない。 「天使」は、本当にいるのだと その日、夜遅くに長屋へ戻ってきたゾロに、隣家の女房が声をかけた。 「おや、ずいぶん遅かったんだねェ。」 「…ああ。」 クン、と、女房が鼻を鳴らし 「いい匂いさせてるじゃないか。」 意味ありげに言ったが 「…女じゃねェよ。こいつは花だ。」 「花？ずいぶん強い匂いだね。」 「銀木犀だ。尾田倶楽部で庭いじりをさせられた。」 「おや、そうだったのかい？さぞ気疲れしたろう？」 「まぁな…。」 確かに疲れた。 行って、まずゾロが何の為に呼ばれたのかを察するまでだいぶかかった。 庶務頭が言ったように、通訳の黒木は人足のゾロを侮って、 まともに相手の言葉を伝えようとしないのだ。 明らかに、あの白い人間はゾロにではなく黒木に不快を感じていたが、 黒木はその不快の責任を全てゾロに転嫁した。 だが ゾロがその日言いつけられた仕事を終えた後、白い人間が黒木に何かを言った。 すると黒木は不機嫌な顔で 「…明日も、お前に仕事を頼みたいと仰っておられる。」 「………。」 余計な問いや拒絶をすれば、一層面倒な事になるとゾロは理解した。 妙な事になったが 「わかりました。」 簡潔に答え、白い人間を見て答え、うなずいた。 面白い形の眉が緩み、唇が微笑み 「アリガトウ。アス アサ ニ。」 知っている言葉を、ようやくつむいだ感がある。 「明日。」 それだけ答えた。 隣家の中で5人の子供が大喧嘩を始めた。女房は、濁声で怒鳴りながら戻って行った。 しばらくうるさい。 だが遊里も酒場も、山の人足たちで溢れかえっている時刻だ。 「………。」 庶務頭が帰った後、通訳黒木を介して言いつけられた仕事は、 伸びた銀木犀の邪魔になる庇を取り除けというものだった。 作業をしている間、白い人間は木を案じてずっとゾロの作業を見ていた。 時々、何かを言っていたが、黒木がその言葉を通訳することはほとんどなかった。 昼、一休みの時にゾロに茶を運んでくれた女中が、その白い人間が この尾田倶楽部に招請された精錬技師の息子であると教えられた。 そうだ。遊里の女共が、「青い目の人形が来た」と騒いだことがあった。 あいつの事だったんだ。 一、二度、父親の精錬技師の姿を見た事がある。 なるほど、同じ色の頭だ。 髪は、まるで黄金のように煌めいていた。 肌は白い陶器のようで、背は高く、体つきはしなやかだった。 目が、まるで瑠璃のように青い事を、ゾロはその日の帰り際に知った。 「アリガトウ」と自分を見た目が青いことに、その時気づいた。 これが、海の外の人間か。 世にはこんな生き物がいるのか。 遊里の女にも、時折垣間見る社のお大尽の夫人達の中にもあんな奴はいない。 なんと美しい生き物。 武一辺倒の父に無骨に育てられたゾロでも、あの凄烈な美しさは嫌でもわかる。 その日、ゾロはそのまま長屋の擦り切れた筵の上で横になり、 様々な事に疲れ、痺れたまま眠り落ちた。 翌朝 山に入る時刻よりも早く、ゾロは廣澤倶楽部を尋ねた。 端場の賄い婦に声をかけ、直に庭に入ると 「Morgen！！」 突然の弾んだ声に、ゾロは驚いて一瞬後ずさった。 早朝にもかかわらず、白い青い目の人形は、庭に出て白い菊を切っていた。 何かを言われたが、黒木がいなければわからない。 さすがに、こんな朝早くに仕事を始めてはいないようだ。 すると、彼は微笑んで 「Walther (ヴァルター)」 自分を指差した 「……？」 いぶかしむゾロへ、また 「Walther Alexander RotesBein 」 「……？？」 白く青い人形は、また自分を指差し、ゆっくりと 「ヴァルター。」 「………。」 「アレクサンデル。」 「……？」 「フォン ローゼンバイン。」 「…？？？」 しばらく、沈黙があった。 答えないゾロに、彼の目にわずかに失望が浮かんだが ふと、思いついたようにゾロが 「…まさか…お前の名前か？」 「…ナマエ…。」 青い瞳に、通じた喜び。 すると、白い指がゾロを向いた。 「……おれか？」 自分を指差しゾロが問うと、青年はうなずいた。 「ゾロ だ。 ゾロ。」 と 「ゾロ。」 反復された言葉に 「おう。」 答える。 「ヴァルター・アレクサンデル。」 「…長ェな。」 困ったように眉が歪む。だが楽しげに笑い、また 「アレクサンデル。」 自分を指差した。 フルネームを告げるのは諦めた。 「ア レ ク サン デ ル。」 一文字ずつ、できる限りはっきり言ったつもりだが 「……サン……デ……ジ？」 は？ 青い目のアレクサンデルは、日本人の耳は、 欧米人の言葉を聞き取れないのだろうか？と首をかしげた。 事実通訳の黒木も、時々聞き取れない言葉があるのか面倒なのか、 何かを言っても相手に通訳しない時がある。 そういえば、日本人の女中たちも皆「トラ」だの「クマ」だの「タケ」だのと、短い名前ばかりだ。 仕方がない。 「サンジか？」 ゾロが言った。 苦笑いしながらも、なんとか自分をそういう名前と認識してくれたことが嬉しかった。 もう、それでもいい。 愛称だと思えば納得できる。 何より、あの黒木を介さずコミュニケーションを取れたことが嬉しい。 再び自分を指差し、うなずくと、 「サンジ。」 「おう、ゾロだ。」 昨日、ずっと苦虫を噛み潰したような顔で仕事をしていたゾロが、やっと自分に笑ってくれた。 アレクサンデルが、この国に来て初めて嬉しいと思えた出来事だった。 昨日、庶務頭に連れてこられたゾロを見て、アレクサンデル-サンジ-は、 「小さな日本人にも、こんな体躯の者がいるのだ」と感心した。 出会う人出会う人、全て彼や父より背が低く、 それらの殆どが彼をどこか卑屈な目で見上げるのがどうにも不愉快だった。 だが、この小汚い姿の人足は、全く遠慮をせず自分を真っ直ぐに見つめ返してきた。 こいつ 信用できる そう思ったのは無条件だった。何の理屈もなかった。 きっと、歳も近いのだろう。 今日を限りでこの男と離れたら、おそらく自分はこの3年、 父とあの黒木以外に話す相手を得る事が出来ないような気がした。 父ならともかく、あのどこか歪な人格の黒木に、自らを語る言葉は持てないだろうと、 この地にやってきてわずか数日で察していた。 ゼフやサンジの知らない事だが、黒木の方も、この親子の通訳の仕事の為に、 3年もこんな中央政権から遠い場所にいなければならないジレンマを抱えていたのだが。 「ゾロ。」 「あ？」 サンジが、ゾロの腕に軽く触れ、庭のある場所を指差した。 「………。」 「Was ist das？」 言葉は分からないが、サンジは軽く首をかしげて眉を寄せて見せた。 そして、指差したものの側に歩み寄り、また、同じ言葉を言った。 「…その木が何だ？って言ってるのか？」 ゾロも、またその木の側に歩み寄り、触れて、サンジの顔を見ながら 「藤。」 「――フジ？」 「そう、藤 だ。春の終わりに、花が咲く。」 「フ ジ。」 藤 そうか、藤というのか。 どういう意味だろう？ ハナガ サク ハナ もしかしたら Blume？ 「デケェ木だ。…男爵がこれをおっ建てた時運ばせたとか言ってたな。」 「……？」 サンジは、手にしていた菊も、ゾロの前に突き出して見せた。 するとゾロは 「菊。」 「キク。」 「…飾るのか？だがそいつは弔い花だぞ。いいのか？」 「…トムライ？サムライ？」 「…侍じゃねェ……ああ…似てるな。」 笑うゾロにつられ、サンジも笑った。 日本に来て、初めて心から笑えたかもしれない。 「…さて、今日は何をすればいいんだ？」 「！！」 「…ま…あの黒メガネが来なきゃダメか…それまで、草むしりでもしててやるよ。」 「……ゾロ。」 「中入ってろ。そんなに朝露に濡れちまったままじゃ風邪をひく。 山の寒さナメねェ方がいい。」 「………。」 その時 「アレクサンデル。」 テラスからの声。 父だ。 「そろそろ食事だ。」 「今、行く。」 父がゾロを見た。 ゾロも立ち上がり、深く頭を垂れる。 「ゾロだよ。父さん。」 「ふむ。」 髭の精錬技師は軽くうなずき、小さく笑った。 どうやら、この国に来て初めての友人ができたらしい。 その時は、それを好ましく、ほほえましく思った。 その時は サンジが初めて自分で探り出し、知ったこの国の言葉は、「藤」と「菊」、ふたつの華の名前だった。 NEXT （2013/11/13） 華の名前-百億の夜-TOP NOVELS-TOP TOP