　華の名前-百億の夜-（2）　

　「ブルック退院したってな！」　「ああ、世話になったな、ウソップ。」　「いやいやいや！おれは何も！」あの夜から2週間で、ブルックは退院した。それでも、しばらくはリハビリをしなければならない。ウソップはブルックの入院中、よく病室に顔を出してくれた。その巧みな話術で退屈させず、おかげで、入院で気持ちが深く落ち込むこともなかった。本人は常日頃自分を、「生まれた時からのネガティブ」と言うのだが。　「で？どうなんだ？…歳も歳だからなァ…家に一人で置いとけねェだろ？」　「ヘルパーとかなんとか…いろいろ手続きしてるところだ。　基本、サンジとおれで面倒みるけどな。」ウソップが思わず　「エライなお前ら。…他人なのによ。」　「…他人とは思ってねェ…まァ…おれは、他に身内はいねェからな。」　「へ？そうなんだ？」　「ああ。」　「………。」　「…なんだ？同情か？」ウソップが、あまりに複雑な顔をしているので　「珍しい事じゃねェよ。」ウソップは苦笑いを浮かべ　「…いや…少なくともおれの周りには、そういう奴いねェもんよ。」　「そうか。」ゾロは笑い、また「大したことじゃねェ。」と言ったが、「大したこと」だから、今ゾロは、サンジとブルックが何より大切なんだろうなと思う。　「今日はなんだ？」ゾロが言った。ウソップは「あ。」と声を上げ　「秋の特別展のポスターが出来たんだ。」　「へェ。」手にした製図ケースから、丸めたそれを取り出して広げ　「じゃ～～～～～ん！いいだろ～～～～～？」　「………。」ゾロが、わずかに眉を寄せた。　「…何で、よりにも寄ってその写真だ？」　「へっへー♪」ウソップが広げたポスターには、何枚かの写真がコラージュされていた。だが、一番人目を引くのは、中央からわずかに左上に配された、精錬技師ローゼンバイン親子の肖像写真だ。　「だってよー、やっぱイケメンは人目を引くだろ？絶対、立ち止まって見るぜ！」　「………。」　「なんだよー？その仏頂面はァ？」　「…別に。」ウソップは、にまっと奇妙な笑みを浮かべ　「…ゾロくんゾロくん？こっちはサンジじゃねェからな？　サンジのひいじいさんだからな？ゴッチャにすんなよ？」　「わぁってるよ！！」　「…まー…わからねェでもねェけどな！こんだけ似てるとよ。直系でなくても血は繋がってるんだもんな？」　「………。」ウソップはまじまじとポスターを眺めながら　「……いやァ…綺麗だよなぁ…おれでも惚れるかもなァ。」　「あァ！？」ゾロのマジギレに、瞬間怯んだが　「だーかーら！こっちはサンジじゃねェだろって！？」　「うっせェ！！なんかムカつくんだからしょうがねェだろ！？」べた惚れだな結論付けて、ウソップは自分が大人になろうとひとつ深呼吸した。ブルックの、「ゾロはブルックのじいさんの生まれ変わり説」も、あながち冗談でもないような気はするのだ。ゾロもサンジも出逢った時から、互いの「何か」を感じていたというのだから。だが、ゾロはブルックがまたその話を繰り返したある時、　「これはおれの感情だ。予め植え付けられたようなもんじゃねェ」と、斬り捨てた。自分も、オカルトの様な転生説を信じているわけではない。それでも　「ロマンじゃねェか。」ウソップの言葉に、ゾロはようやく苦笑いを浮かべた。廣澤銅山工業は、その企業で雇った外国人を住まわせる為と、賓客の迎賓館として使用する為、いくつかの洋館を所有していた。尾田のそれは、精錬技師ローゼンバイン親子の住まいである。親子の身の回りの世話をするために、通訳の黒木と、廣澤鉱業の技師見習いの書生と、女中頭と2人の下働きの女が住みこんでいる。ゾロは、週６日労働の内１日、水曜日、尾田の廣澤倶楽部に通っていた。『サンジ』が、個人的な力仕事を頼みたいと、定期的に通う事を望んだのだ。その水曜日の朝、ゾロは女中頭のおくまに、「表から出入りするのはおやめなさい」と言い含められた。　「黒木さんがいい顔をしませんよ。」そのタイミングで、この日の帰り際サンジが　「ニホンゴ　オボエタイ。」と、言った。　「あァ？」ゾロの仕事が終わったので、今日の分の給金を渡し、黒木はさっさと仕事を終えて戻っていた。だから、サンジが自分に、たどたどしい日本語で何かを言ったのだとわかった。手拭いで汗を拭いながらぶっきらぼうに答えると、サンジは、自分の仕草がゾロに見える位置までわざわざ移動し　「ニホンゴ　オボエタイ　…あ…Erzähle！」　「…あ？最後、なんだって？」　「Erzähle…あ…あ～～…。」「教えて」という日本語がわからず、思わず、サンジは両手を合わせ、ぺこっと頭を下げた。　「…教えろってか？日本語を？」　「―――！！」この男は本当に察しがいい。コクコクと、サンジは首を縦に振る。金の髪が揺れる度、夕陽に光るのを眩しく見ながら　「おれの言葉は上品じゃねェ。山男の下衆な日本語だ。　覚えるなら、黒木に教えてもらった方がいい。」夕陽に染まる西洋庭園。秋の日暮れは早く、風も冷たい。　「…じゃ、行くからよ。」　「――ゾロ！！」赤銅色の腕を掴み、引き止めながら、サンジは必死に言葉を探す。母国語なら、簡単に言える言葉。　「…Ich mag nicht…。」　「あ？」あいつは嫌いだ。ドイツ語で呟いた。だが、ゾロには通じない。なのに　「…あいつが嫌いか？」穏やかに、ゾロが尋ねた。俯きかけた青い目がゾロを見る。気持ちは、ゾロにもわかる。　「……あいつのいけ好かなさは天下一品だな。おれ達鉱夫を人とは思ってねェ。」　「………。」　「まさか、お前にもそうなのか？」黒木は本来、ゼフ１人の通訳のはずだった。それが何故か息子の面倒まで押しつけられ、道楽の為の通訳までさせられ、小汚い鉱夫を相手に喋らされる。どうにも鬱憤が溜まっているらしい。さすがに、ゼフの通訳は手を抜く訳にはいかない。だから、息子の方がおざなりになる。しかも、心優しい息子は、黒木の慇懃無礼な態度を父や会社の人間に告げ口をするような真似をしなかった。もっとも、それをサンジがしたとしても、黒木は周りを丸め込む算段は整えていたが。　「知らねェぞ？あのすまし顔が真っ青になって、『誰にそんな汚ねェ言葉を教わった！？』　ってキレられてもよ…てか、おい。どう考えてもおれだって、バレるよな？」ひとりでまくしたて、ひとりでウケ、ゾロは笑った。ゾロが何を言ったのか半分もわからなかったが、機嫌がよいのは分かる。サンジも、白い歯を見せて笑った。やがて季節は冬を迎えた。冬になっても、山の仕事に大きな変化はない。水が凍り、雪が舞っても、深い穴底の狭い坑道の熱気は夏と全く変わらない。掘り広げられた坑道は冷えて凍えんばかりだが、枝のように分かれた狭い坑道は、機械の蒸気が発する熱と人いきれで、木綿のシャツ１枚でも汗だくになる。しかし、一歩外に出れば凍てつく寒さであるから、当然体調を崩すものも多い。そして、週１回の廣澤倶楽部通いのゾロ。庭が眠る冬に大してすることは無いが、週一通うゾロの男手をアテにして、女中たちが冬籠りの支度を始めた。ある水曜日、女中頭のおくまは、台所口からやってくるゾロを待ちきれず厨房にやってきたサンジに仰天した。　「ぼっちゃま、いけません！こんな端場へお越しになられては！！」かなりな剣幕でたしなめたが、サンジは、おくまが行っていた作業に興味を持ち　「……何やってんだ？」ゾロが、肩にかかった初冬の粉雪を払いながら入って来た時見たものは、女たちに混じって大きな漬物樽と格闘しているサンジの姿だった。ゾロの姿を見ると、サンジは嬉しそうに　「ツケモノ！！」と、胸を張って叫ぶように言った。　「ああ、見りゃわかる。」馬鹿にしたような含み笑い。だが　「おい、糠が顔についてっぞ？」　「ヌカ？」白いシャツをまくった腕で、頬を擦る。だが　「ああああああ！いけません！いけません！…ああ…もう…！」落とすどころか、ますます顔に広がった。しかし、サンジは楽しそうに　「タクアン！」　「お前が漬けたのか？食えるのかよ。」若い女中が困ったように、だが笑いながら言う。　「お止めしても聞かないんだもの…。」と、サンジが　「ツケタ？ツケル？オナジ？」　「ああ、同じだ。ツケタは、ツケルの過去形…過ぎた事象に使う。」　「アカリ　ツケル　オナジ。」　「違う。『灯りを点ける』　と、『野菜を漬ける』は全く意味が違う。」笑いながら答えたゾロの言葉を理解したのか、サンジは大きく息をつき　「ニホンゴ　ムズカシ。」　「…そう思ったら諦めろ。こっちも楽でいい。」独り言のように言った。しかも、おそらく意味は分からないであろうに、サンジはいきなり、ゾロの尻を思いっきり蹴り上げた。　「いてェ！！何すんだ！てめェァアア！！？」　「Ich würde einen Narren machen!? Ich verstehe irgendwie den schlechte-Mund! 　(バカにしただろ！？悪口はなんとなく分かるんだよ！)」　「うるっせ！！何言ってんのかわかんねェよ！！」　「Verdamme es!!　Ich lerne es absolut!!(クソ！絶対言い返せるようになってやる！！)」この２人、近頃ケンカをすることが多くなってきた。初め、ゾロも遠慮がちであったし、サンジの方もおどおどしていたのに、この頃、互いの母国語でまるで通じているかのようなケンカをする。ゾロは使用人で技術者以下の人夫であるのに、会社が最上級の礼を尽くして迎えた男の息子に対して、何の遠慮も持たない。ゾロのその無遠慮さが、サンジの異国の地での生活を明るく彩り始めた。本来の彼の性格は、見た目の華やかさとは全く真逆。本国の大学の中でも、ローゼンバイン家のアレクサンデルの喧嘩っ早さは有名だった。プライドが高いのはバイエルン貴族の本質の様なもの。些細な事で、命懸けの決闘になだれ込むのは日常茶飯事。だが、数えきれない決闘で、サンジは負けたことがなかった。彼は、そういう青年だった。それが故国で、彼が王に見初められ望まれたことを知った周囲の目が、異端を見るそれに変わるのがわかった。確かに、黙ってそこに立っているだけならば、サンジは大輪の薔薇のように美々しく、儚げに見える。悋気の王を恐れて、友人も去って行った。かつて決闘に敗れた者たちは、ここぞとばかりに彼を侮辱し、軽蔑した。男の性を持ちながら、同じ男を惹きつける。そんな性癖があろうが無かろうが、一度であろうとそういう目で見られた事実は屈辱以外の何物でもない。逃げる様に、望みもしない国へやって来た。どれほど暗い３年を過ごすのかと、絶望にも似た思いを抱いた数か月後、ゾロが目の前に現れた。無遠慮に自分を見、全く媚びへつらう事もしない。真面目で誠実であることは、最初の日の仕事ぶりを見てわかっていた。友達になりたい。純粋な青年らしい望みは届き、叶えられ…。　「ゾロ　テメェ　イクツ　サイ？」サンジが、単語をひとつひとつ区切って話すときは、それがようやく絞り出した日本語なのだと最近わかってきた。ゾロ　と　てめェ　はわかったが、最後の『イクツサイ』が理解不能。だがサンジは、ゾロの答えをワクワクしながら待っている。そして、やっぱり『てめェ』はまずかったなと、ほんの少し後悔したがもう後の祭り。　「イクツサイ……じゃ…てめェは『イクツサイ』だ？」　「オレ？オレ、ニ　ト　ジュウ。」　「ニトジュウ？？？……ああ…！２と１０か…２０…ああ、歳か？だったら、　『イクツサイ』じゃなく『歳はいくつですか？』か『何歳ですか？』だぞ。　…で、おれも２０歳だ。…タメかよ…そうは見えねェな。」　「タメ？」　「…覚えなくていいぞ…同い年ってこった。」　「オナイドシ？」　「ああ、ムズカシイな。同じだ。同じ２０歳。」サンジに言葉を教え始めてから、ゾロは自分の国の言葉が異国のそれに比べ、複雑で難解であることを早々に悟った。サンジの国の『いろは』は、日本語のそれよりはるかに少ない『アルファベット』２６文字のみ。しかし日本語にはさらに、そこの『漢字』『平仮名』『片仮名』が、それぞれ５０文字あるのだと教えると、サンジは瞬間絶望して空を仰いだ。サンジはまだ文字は書けないが、自分の名だけは教えてもらい書けるようになった。もっとも、『アレクサンデル』ではなく『サンジ』だが。サンジは飲み込みの速い生徒であったが、ゾロもまた物を教えるのが上手かった。義父のコーシローが病で伏せた１３の頃まで、彼から徹底的に学問を叩き込まれていたおかげで、山間の小さな学校の教師よりもずっと、学があり教え方が上手い。おかげで、鉱夫長屋の子供たちは、近在の他の村々の子供に比べれば識字率が格段に高かった。サンジの父ゼフは、人種差別を嫌う人間であった。人であるからには平等であり、才能ある者がその才を発揮できないのは悲劇であり、罪悪であるという信念を持っていた。だから、息子の『友人』である若い鉱夫の賢さを知り、それがただの一人足として穴に潜っているのを惜しいと感じていたらしい。　「〝赫足〟さんが、お前を助手にしたいと言ってるが、受けるか？」庶務頭から、そう告げられたのはその週の土曜日の事だった。明日は休日のはずだが、生産が追い付かず出勤を命じられている。こんなことは珍しくない。労働規定などない時代だ。〝赫足〟さん、というのはローゼンバインの事だ。精錬技師は少し足が弱いらしく、いつも愛用の紅色の杖をついていた。そこから、男たちがつけたあだ名だ。『ローゼンバイン』は言い難い。そしてゼフの方も近頃、「〝赫足〟さん」と呼びかけられて振り返るようになった。決して不快を見せず応対するので、ゼフは鉱夫達にも人気がある。〝赫足〟さんが喜ぶから、頑張っていい仕事をしよう褒められればうれしいのは大人でも同じだ。そんな理由から、生産効率は上がっている。しかし、会社側はそんな事に気が付いているのかいないのか…。　「助手？おれが？」助手なら見習いがいるだろうに。そうゾロが言うと、庶務頭は意味ありげに笑って言った。　「素直にハイとお受けしろ。」　「………。」しばらく、ゾロは黙っていたが　「穴の中の方が気が楽だ。…断ってくれ。」　「おいおい…せっかく気に入ってもらえてんだぞ？勿体ねェ。」　「媚びるつもりはねェ。あの野郎…余計なお世話を。」サンジが、父にねだったのか。余計な事を…。　「伝えてくれねェか？こっちの仕事が忙しくなった。もう、行かねェ。」　「…なんだって…？」ゾロのささやかな、どこか思い上がった勘違いをサンジに伝えたのは黒木だった。黒木以外、伝えられる人間もいない。　「余計なお世話だって…？それは何の話だ？」サンジの問いに、黒木はあの仕草でメガネを上げて　「ですから…お父上があの男を助手として、精錬技術を学ばせたいと仰っておられたのです。」　「…親父が…？聞いてねェ！」　「ところがあの男、それを断りました。なんとも恩知らずなことです。」　「………。」　「もっとも…身の程は弁えたのでしょうが…。」　「…だから…ここへはもう来ないって…？そんな勝手な話があるかよ！！　おい…ゾロをここへ呼んでくれ！！」サンジの言葉に、黒木は薄い眉を寄せた。唇に、あからさまな不快。　「お父上は、『ならば、仕方がない』と仰られました。アレクサンデルさん、お慎みを。」　「……！！」この男が、ゾロに何かを言ったのだろうか？この邸宅内でゾロを見ると、二度に一度はゾロに嫌味を言うような男だ。そしてサンジにも、黒木は　「父親が士族崩れで、落ちぶれて穴倉生活を送っている。　あなたが気に留めるような者ではありません。」と、言った。　「…シゾク…？シゾクって何だ？」黒木は、「あ」と短く声を上げたが。　「サムライですよ。これからのこの国には必要ない。前世紀の遺物です。」　「………。」用事は済んだ。と、ばかりに、黒木はきびすを返して去って行った。洋館の長い廊下。北側に面したそこは、大きな窓を持ちながらどこか暗く、冷えて寂しい。胸が、キリと痛んだ。サンジの眉が、ギッと怒りに吊り上る。走るように、父の部屋へ駆け込んだ。　「……なんでそんな余計な事をしたんだよ！？」庭に面した書斎。紫檀の机に向かい、作業工程の確認書に目を通していたゼフは、いきなりの息子の乱入に眉を寄せた。　「何の事だ？」　「トボけんな！ゾロの事だ！！」「ああ」と、ゼフは言い、椅子に深く背を預けると　「よい技師になると思ったのだが…残念だ。」　「…！！」　「どうした？」サンジは、大きく息をついた。そうだこの父が、単なる妥協や情で事を運ぶ人間でない事を、サンジはよく知っている。父は本当に、ゾロを見込んで持っていった話なのだろう。なのに、ゾロの方が、自分絡みの抜擢だと勘違いしたのだ。馬鹿野郎　「…おれは３年後にはここを去る。それまでに、鉱夫の誰かに精錬技術を叩き込まなければならん。　あの男が適任だと思ったが…。」　「…そう…か…。」　「何があった？」サンジは笑い　「……いや…なんでもねェ…。」ため息の様に答えた。　「親父…その話…少し保留しといてくれねェか？」　「…かまわんが？」　「ありがとう。」出て行く息子を見送り、ゼフはわずかに首をかしげた。元来た廊下を戻り、回廊の掃きだし窓から庭へ降りる。山から吹き下ろす風が冷たい。冬だ。バイエルンの冬も厳しいが、この地の冬の冷たさもまるで肌を刺すようだ。あんなに美しかった庭も、今は丸裸に等しく冷え冷えとしている。この庭で、一番その存在感を主張しているのは、広大な棚を持つ藤の木だ。夏、この樹の下は絶好の日陰で、湿気の多い日本の初めての夏をなんとか乗り越えさせてくれた。寂しいほんの小さな誤解と行き違い些細な事なのに、なぜこんなに切ないのだろう…。サンジはぐっと拳を握った。その日、いつもの水曜日であったが、ゾロは廣澤倶楽部へは行かず坑道に入った。ゾロが居ない事で、その日が水曜日であると習慣づけていた仲間は、おかげでその日女郎としていた約束を忘れちまったと文句をたれたが、全くの八つ当たりだ。遅くまで銅を掘り、混雑した風呂の順番にようやく辿り着き、飲み屋で飯をかき込んでから長屋に帰った。すると　「……？」妙だ。灯りが点いている。隣の家から、カミさんのいつものがなり声。子供の喚く声。いつもよりは躊躇いがちに、戸を開けると。　「―――！！」パァン！！乾いた音と頬に走った熱い痛み我に返り見た正面に　「……てめ……。」　「Es ist du bullshit！！」　「……あ？」怒りに潤む青い目。震える金の髪。白い肌、紅い頬。　「Was über dem Versprechen, mich japanisch zu unterrichten！？」　「…何を言ってんのかわからねェよ。」　「Kannst du auch das kleine Versprechen nicht halten！？Du！？」　「…てか…てめェひとりで来たのか？こんな遅くによ…。」　「…Bullshit…！！」　「…埒が明かねェな…おい、黒木はどうした？」黒木という名に、サンジの眉が吊り上った。　「ニホンゴ！！オシエロ！！」　「………。」　「クロキ　イラナイ！！」　「…おい…。」　「……っ！！」瞬間引き戸を破り、ゾロの体が長屋の井戸端まで吹っ飛んだ。キレたサンジに、力の限り蹴り飛ばされたのだと悟るまで、時間はかからなかった。　「…てめェ…っ！！」跳ね起き、外に飛び出してきたサンジの懐に潜り込んだが　「………っ！！」サンジがぐっと体を捻り、避けるのが早かった。こいつ、ケンカ慣れしていやがる…！！見た目の華やかさ、たおやかさとはなんという違い。臆していたら、一方的にやられる！！ゾロは息と体勢を整えた。武術は義父に仕込まれている。喧嘩っ早い鉱夫達と、これまでも幾度となくケンカはしてきた。負ける気はしない。相手はお雇い外国人の息子だ。ケガをさせたらヤバいが、何故か一方的にブチギレしている相手に、ただやられっぱなしで我慢できる性分ではない。　「…おい！よせ！サンジ！！」　「Entkomme nicht！！」　「………。」ああ言葉が通じない苛立ちを、こういう形でぶつけているのだ。　「サンジ…！！」　「……っ！！」　「わかった！！わかったから！！」　「……！！」気がつけば、長屋の連中全員が遠巻きに見ている。赫足さんの倅だよゾロのヤツ、何をやったんだ？しかし、すげェな。ゾロを相手にやり合ってるぜ囁くのが聞こえる。　「サンジ！！」　「………っっ！！」ふと我に返り、サンジはピタと動きを止めた。乱れた髪の合間から、周りを見回す。ゾロの隣家の子供たちが、怯えた顔でサンジを見上げ、目が合うとびくりと震えて母親にしがみついた。　「……落ち着いたか？」　「………。」ゾロは立ち上がり、サンジの背中を叩いた。そして　「悪かった。何でもねェんだ。」周りの住人達に言った。それに隣家の女房が言う。　「何もなくて、お坊ちゃんがこんなに泣くもんかい！」　「……泣く？」言われて、サンジの顔を見た　「……！！」白い頬に涙。青い目から、滝のように涙が溢れている。　「ゾロ、あんた何をしたんだい？」　「…何もしてねェよ…。」ゾロが言った瞬間、その意味を察したのかゾロの脚がゾロの脛にヒットした。　「がっ！！てめ…！！」　「……Narr！！」　「…今のはわかるぞ。てめェバカっつったな？」いーっと、口を歪めてサンジはそっぽを向いた。こういう仕草に、東西の別はないようだ。途端に、長屋が湧いた。　「お前が悪いな、ゾロ。」　「ああ！？なんで！？」　「あんたが悪いね、ゾロ。」　「おい！！」　「ごめんなさい言わなきゃ。」　「はァ！？」 (トウの経った)女達が、ワラワラとサンジに群がり　「ホラホラ、泥だらけじゃありませんか！」　「大の男が、簡単に泣いたりしちゃいけませんよ！」さすがに、騒ぎを起こした事とこの状況に、サンジは困惑して頬を染めた。　「…廣澤倶楽部からひとりで来たのか？」ゾロの問いに、はす向かいの家の女房が答える。　「俥が着いたからさ、なんだろうと思って顔出したら坊ちゃんで、　あんたの名前を繰り返すもんだから、待ってなって言ったんだよ。」　「…そうか…で、俥は？」　「返したよ。あんた、いつ戻ってくるかわからないんだから…。」ゾロは、サンジをギロと睨みつけた。ぷいっと、サンジの顔がそっぽを向く。　「………。」　「………。」長い沈黙ガリガリと、ゾロが頭を掻いた。ニホンゴ　オシエロ　クロキ　イラナイ叫んでいた。　「…おれは精錬技師になるつもりはねェぞ。」ゾロが言うと、サンジはようやくゾロを見　「……ニホンゴ…オシエロ…ゼンブ……。」サンジは、自分の心臓の上に手を置き、捧げる様にゾロに手を差し伸べた。自分の思いを、自分の言葉で伝えたい。そう言いたいのだと、ゾロは察した。　「…わかった…わかったよ…。」　「………。」　「…わかった…来週は行く。約束する。」　「…ヤクソク…スル…。」　「約束だ。」　「………。」浮かべた笑顔に、サンジもまたようやく微笑んだ。すると　「ゾロ兄、約束するなら指切りしなきゃ！」隣家の末っ子が、甲高い声を上げた。　「いいんだよ！んな、ガキのまじない。」　「ユビキリ？」サンジが言うと、言いだした子の兄がサンジの手を取り小指を絡めて　「ゆびきりげんまん　うそついたら　はりせんぼん　のーます♪」　「ウビキリ　エンマ　ウッソツイダラ　アイセンマン　ノーマゾ？」サンジの反復に、どっと長屋中が沸いた。ゾロもつられて笑ったが、途端に尻を蹴りあげられた。　「痛ェな！ったく、癖の悪ィ脚め！！」鉱夫の長屋に俥屋はこない。俥を拾うには鉄道の駅か、花街の大門まで行かなければならない。普段ゾロは、廣澤倶楽部まで徒歩で行き来をしているが、採掘現場から廣澤倶楽部までは一里半、この長屋からは二里はある。決して近くはない道のり。夜も更けてきた。歩いて帰らせるわけにはいかない。すでに汽車もない時刻では、駅に俥がいる筈もなく、当然とゾロは花街に向かった。鉱夫相手の小さな色街は、それでもこの近在では一番大きく身入りが良い。女郎宿は４件、飯盛り宿は６件。それぞれに、最低でも５、６人は女を抱えている。　「てめェをあんなとこに連れてったと知られたら、とんでもねェことになるな。」　「……ゾロ……。」　「…あん？」わずかに、ゾロの後方を歩きながら、サンジはドイツ語で　「…おれは親父に何も言ってない…お前は本当に親父に見込まれたんだ。」　「……悪ィ。わかんね…。」　「………。」　「………。」ここまで、この美々しい青年がブチ切れて怒る理由が見えない。日本語の教師を途中放棄しただけでは、ここまで怒りはしないだろう。おそらくは、自分が何か誤解をしたのだ。それを、この男は怒っている…。　「………。」心当たりは、精錬技師の助手を断り、もう廣澤倶楽部へは行かないと言った事だけだ。自分は、サンジが自分を推して指名されたのだと思っていたが。　「…悪かったよ。」　「――――。」　「悪かった。」詫びる時、ゾロはいつも「ワルカッタ」、と言う。思わず、サンジは立ち止まった。足音が停まった為、ゾロも立ち止り振り返った。思えば、コイツはそんなおねだりをするような奴じゃねェおれが間違っていた。サンジは、幾度か小刻みにうなずき、最後に、大きくうなずいた。誤解が、解けた。わかりあえる友がここにいる。言葉は通じなくとも、同じ魂を持っていることを確信する。こんな最果ての地で、こんな最良の相手に巡り合えるなんて…。サンジは再び歩き出し、ゾロの隣に並んだ。同じ歩幅で、リズムで、夜道を歩く。凍てつく風が、金の髪を煽る。だが、心は熱かった。赤い木戸、提燈、橙色の灯火。甲高い笑い声と、何処かから聞こえてくるケンカ腰の声が入り乱れていた。あからさまな淫猥な雰囲気に、サンジは瞬間ためらったが　「…俥を呼んで来る。ここで待ってろ。」　「………！」行こうとするゾロの腕に、思わず手をかけた。　「…マズイんだよ。てめェを中へ入れると…。」ムッとした顔で、またサンジが膝を上げた。　「…メンドくせぇ…どうなっても知らねェぞ…。」大門を潜ると、音の外れた三味線の音や謡の声が聞こえてきた。女の嬌声、矢場の太鼓の音、調子っぱずれのラッパの音。そこが、娼館であることをサンジは悟った。ルター派信者の家庭に生まれ、貞操観念の強い教育を受けてきたサンジには、こんな田舎の花街でも刺激が強い。甘い、奇妙な香り、強い煙草の匂い、脂ぎった料理と何かを燻すような匂い。角々で、こちらを見る山男。女郎屋の用心棒。虚勢を張ってはいるが、ここに来るまでは見たこともない世界。サンジは思わず、ゾロの袖を握る手に力を籠めた。　「あらっ！ゾロじゃないのぅ！！」　「おやまァ…久しぶりじゃないか。」　「お見限りだねェ、登楼がっておいきな！」角々で、ゾロに声をかけてくる女達。　「おいおい…赫足の倅じゃねェか！」　「異人さ～ん！ウチにおあがりよ～ぅ！」　「ねェ、遊ぼうよ～ダンナァ～～。」　「ご大身がお登楼りだぜ！」　「よう！坊ちゃん！筆下ろしに来たのかァ？」どの言葉もサンジにはわからないが、馬鹿にされているだろうことは雰囲気でわかる。青い目を見開き、瞬間身を翻そうとしたが　「―――っ！！」　「…ほっとけ。」ぎゅっ　と　　力強く手を握られた。　「………。」小さな色街は、漢字の「田」のような形をしている。ゾロとサンジは大門からまっすぐ歩いて、広小路を右に折れた。すると、小さな木戸があり、その側に２台の俥が停まっていた。それぞれの車夫は、番小屋の中で火鉢に手をかけながら札を振るっている。　「おい、頼む。」ゾロの声に、車夫は顔も見ず反射的に「へい！」と威勢よく顔を上げた。しかし瞬間、顔を青ざめさせ　「ゾ、ゾロの兄貴！」片方の車夫も顔を上げ、ゾロを見て、驚愕に目を見開き「アニキ！」と呼んだ。ゾロは構わず　「ジョニー、ヨサク。こいつを廣澤倶楽部までやってくれ。」　「うおっ！！こちら、ど、どちらさんで！？」　「赫足の倅だ。門の中までしっかり届けろ。」　「わかりやした！！廣澤倶楽部っすね！ヘイ！超特急で！！」２人は、東京で身を持ち崩した元士族の息子達だった。２人とも子だくさんの三男坊四男坊で、明治維新で食うに食えなくなった親が、商家に奉公に出したらしいがもたず、やくざ者に身を落とした。流れ流れて仕事の口を求め、辿り着いた先がこの山だった。タイミングよく、会社が車夫を求めていたので穴には潜らずそちらの職にありついた。しかし、車夫と言う仕事柄、それまでの経緯からチンピラヤクザな性分が抜けず、肩をいからせ、町の親分肌を気取ってアレコレ悪さをしていたのだが、結局ゾロに拳一発で沈められた。そんな間柄　「超特急はいいが、無茶はすんなよ。大事に運べ。」　「へいっ！そりゃもう！！」　「丁重に！！」ゾロはサンジの背中を押し　「乗れ。」と、紅い座面を指差した。少しためらいながらサンジが俥上に上がり、座ると、ジョニーが膝に毛布を掛けた。　「あまり、きれいじゃありやせんが、寒うござんすからね。」　「…アリガトウ…。」サンジが礼を言うと、ジョニーは途端に顔を真っ赤にさせた。この綺麗な生き物から、自分に対して言葉が紡がれるとは思いもしなかったのだ。　「ゾロ？」サンジに呼ばれ、ヨサクに俥代を渡していたゾロが振り返る。　「大丈夫だ。こいつらは信用していい。」　「………。」　「…大丈夫だ。次の、水曜。必ず、行く。」言葉をひとつひとつ区切りながら、ゾロは言った。それを理解したか、サンジはかすかに笑い　「―――。」俥の上から、手を差し伸べ　「……おい……。」困ったように笑うゾロ。しかし、サンジの表情は真剣だ。　「ユビキリ。」　「…ガキじゃねェんだ。」　「ユビキリ！」また、俥の上から蹴り飛ばされてもかなわない。　「わかった。」　「………。」赤銅色の小指と、白い小指が絡まる。　「ウビキリ　エンマ　ウッソツイダラ　アイセンマン　ノーマゾ！」　「……はは……げんまん。」青い瞳が微笑む。チリ　「……？」絡んだ指が離れ、サンジは日本語で「オヤスミ」と言った。そして　「ワルカッタ！！」「あらよっと！」とヨサクが声を上げ、俥が走り出した瞬間、叫んだ。闇にまぎれて見えなくなるまで、サンジは身を乗り出してゾロを見ていた。見送ったジョニーが　「…いや～～～…綺麗な御仁でしたね～～こんな間近で見たの初めてだ～別嬪だ～～～…。」　「………。」　「…お送りしなくてよかったんですかい？アニキ？」　「……明日も早ェんだ。あっちまで送ったら、寝る時間が無くなる。」　「あ、さいで…。」その時　「…太夫並みの肌の白さじゃねェか…隅に置けねェな、ゾロよぅ。」低い声に、ゾロは目だけで相手を見た。この花街の元締め、ホーディ。後ろに、幾人もの子分を従えている。　「……てめェが表にいるのは珍しいな。」ゾロの言葉に　「てめェが来ると、女共がやかましくなっていけねェ。　せっかくお雇いの倅を引っ張ってきて、素通りで帰るってこたァねェんじゃねェか？」　「…そんな事してみろ、山から放り出されておまんまの食い上げだ。」　「ジャハハハハハ！！どこぞの女のトコにでも転がりこみゃあ、食うには困らねェだろう！　なんなら、ウチで雇ってやってもいいんだぜ？」　「ああ…そん時は頼むわ。…じゃぁな。」ジョニーが　「アニキ！乗ってきやせんか！？」　「金がねェ。さっきのでスッカラカンだ。」西の小木戸口を潜り、ゾロは長屋へ戻って行った。その姿を見送って　「……けっ…相変わらずスカした野郎だ。」腕っぷしだけでなく、ゾロは頭の回転もよい。馬鹿な客からボったくろうとしてゾロに邪魔をされたのは一度や二度ではない。彼らは知らない事だが、ゾロは侍の子であり大名の子だ。支配者であり先導者の資質が、元より体の中に備わっているのかもしれない。決して人づきあいがよい方ではないのに、不思議とゾロは人に慕われた。裏稼業で生きる者が、サンジの様な階級の人間や、ゾロの様な人物を妬み、嫉み、疎ましく思うのはいつの時代も変わらない。どうしたら、あの澄ました顔にひとあわ吹かせてやれるのか。ゾロの姿を見る度に、ホーディが考える事はそれだけだった。ひとりで勝手に飛び出し、こんな深夜に帰宅したサンジをゼフは叱った。女中たちが、夕方何度スープを温め直したか。何度門の前まで見に行ったか。３人の女中たちは笑って首を振ったが、黒木だけはさすがに、この夜中の時間外勤務に腹を立て呆れている。ようやくそれらから解放されて、サンジが自分の部屋のベッドに倒れ込んだのは、もう夜中の２時を回った頃だ。そして　「………。」着替えもせず、ゾロと取っ組み合った跡の残る薄汚れたシャツのまま、ごろりと仰向けになる。天井に、手を伸ばす。指を折り小指を　「………。」ユビキリゲンマン絡めた指　「………。」それは、無意識な行動だった。まだ、あの銅の指のぬくもりが残っている、その指に　「――――っ！！」自分のしたことに驚き、サンジは跳ね起きた。思わず指を押え、胸に抱いて身を縮める。　「……まさか……。」サンジは、前髪を掻きあげて自分を笑った。これはないありえない声に出してみる　「…何を血迷ってんだ…おれは…。」　「………。」　「……く……。」げんまんあの笑顔が、脳裏に焼き付いて離れない。息が、苦しい　「………。」馬鹿だただ、自分の指にくちづけただけなのにおれは何を狼狽えてる… 同時に　「………っ！！」季節は冬。サンジが、狂気の王に見初められたのもある冬だった。雪の庭で、王は、サンジが素手のままでいるのを見て言った。暖かな手袋を贈ろう。何とも痛々しい。そう言って　「………っ。」王が口づけた手の甲を、サンジは真っ赤になるまで擦り続けた。あの時、背筋を走ったのは間違いなく嫌悪感のはずだった。それなのに、今、ゾロに触れたこの小指が愛しい…。　「……ゾロ……。」ゾロの名を呼ぶ幾人もの女の声が、まだ耳に残っている。皆、ゾロと寝た女なのだろうか…？　「…ゾ…ロ…。」その名がなぜこんなに苦しい… BEFORE 　　 NEXT 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（2013/11/27）華の名前-百億の夜-TOP NOVELS-TOP TOP