カウンターの隅に置かれた、卓上カレンダーの残りの枚数が5枚になった。 8月 夏だ リゾートシーズン真っ盛りだ。 8月に入ると、店内はいつも客でいっぱいになった。 T県の北部にある、古くからのリゾート地。 中心部の湖の近く、サイクリングロード沿いのカフェ、『アクア』。 小さな林の中にある、古民家風のコテージのカフェは、マスターの淹れるコーヒーが人気の店。 ここ数年、マスターの孫が作る料理も、この店の名物になった。 サイクリングロードは今日も賑わっている。 るるぶやまっぷる片手に入ってくる、カップル、OL、大学生。 山の緑がまぶしい。 最近ではハイキング帰りの中高年も増えた。  「ありがとうございました、また、お近くへおいでの際はお立ち寄りください。」 マスターの孫、サンジは、50代半ばの夫人に、にっこり笑って言った。  「ごちそうさま、とても美味しかったわ。また来ますね。」  「癖になりそうですよ、ここのコーヒーの味は…。  お世辞抜きで、滞在中にまた来ます。」  「ありがとうございます。」 都内の一流ホテルで働いていたサンジの仕草は洗練されていて、深々と頭を下げる華麗な姿に、 次の会計を待っていた2人の女性が見惚れていた。  「お待たせいたしました。…お会計、ご一緒でよろしいですか?…ありがとうございます、3,575円です。  …ありがとうございました!…また、おいでください!」  「はい!また来ます…!」  「ごちそうさまでした!!」 にっこりと、サンジは微笑んだ。 女性2人と入れ違いに  「………。」  「いらっしゃい。」 サンジは、視線を落として笑った。  「いつ来たんだ?」  「昨夜だ。」  「いつまでいる?」  「……ずっといる。」  「ふうん。」 ふわふわした、緑の髪。 店の奥、カウンターの隅に腰を下ろした。 中に居たオーナーが、黙って水を置く。  「カフェオレでいいか?」 小さな客は、うなずいた。 小さいというには少し大きい。 緑の髪の少年は、今年は中学2年生のはずだ。  「背、また伸びたな。…来年には追い越されてるかもなァ…勘弁しろよ、おい。」 思わず、緑の頭をぐしゃぐしゃとかき回した。  「………。」 名前はゾロ。 この近くの別荘に。毎年夏にやってくる。 夏休みの間、ゾロはここで過ごすのだ。 巷でよく言う、『セレブ』な家の子供だ。 だが、ゾロはそんな気取ったところは微塵もない。 一度逢った父親が、「運良く成りあがっただけです。」と、笑っていた。 どういう商売で成りあがったかは知らない、どうでもいい。  「ゾロ、飯は?…かぼちゃのパスタがあるぜ。」  「いらねェ。」  「食ってくれよ。おれが食ってもらいてェんだ。」  「………。」  「お前、食いっぷりイイもんな。」 サンジの祖父、ゼフが、ゾロの前にカフェオレのカップを置いた。 毎年夏にやってきて、滞在中は毎日やってくる。 初めてここに来たのはゾロが小学4年生の時だ。 クソ生意気だけど、美味そうに飯を食う顔が可愛い。 年に一度の楽しみ。 かぼちゃのパスタを、ゾロは嬉しそうにたいらげた。 嬉しそうとおれは言ったが、実際のゾロの顔は仏頂面のままだ。 だが、わかる。  「ごちそうさまでした。」  「はい、お粗末さまでした。…明日は何がいい?」  「…明太子がいい。」  「了解。」 ほら、ホントは素直。  「サンジ。」  「はいよ。」 ずっと年下のくせに、ゾロはおれを遠慮なく呼び捨てだ。  「好きだ。」 その声は、決して大きくはなかった。 だが、小さくもなかった。 そんなに広い店じゃない。ゾロのその言葉は、店にいた人間全てが聞いていた。  「……ああ、ありがとう……。」 素直に そう思ったから おれもそう答えた テーブルの客達が、くすくすと笑う。 だが、その笑いに悪気はない。 背は大きいけれど、まだあどけない顔をした男の子が、綺麗な年上のお兄さんに『好きです』と告白した勇気を称えた。 ゾロの目は大真面目で、おれを見上げる目は真剣でまっすぐだった。  「ありがと。」  「………。」 軽い答えに、ゾロはわずかに苛立ちを見せた。 そして  「!!」 営業中の店の中で ジジィの目の前で 客の前で 中学2年生のゾロは、23歳のサンジの頭を抱えてキスした。  「!!!!!!!!」 ゾロの、緑の頭の向こうにゼフの顔。 慌てて、サンジはゾロを引き離した。 そして  「ふざけんなァ!!このエロ坊主――――っ!!」 思わず足が出た。 ゾロの体は、店の入り口から外へ吹っ飛んで行った。  「てめェ!!自分が何したかわかってんのか!?あァ!?」 追いかけるように外へ飛び出し、倒れたゾロの襟首を掴んで引きずりあげ、サンジは真っ赤な顔で叫んだ。 だがゾロは、緑の髪に地面の枯れ草をつけたまま  「わかってらァ!!おれはお前が好きだ!!だからキスしたんだ!何が悪い!?」  「何が悪いって、それが悪いんだよ!!」 その時、怒鳴り合う2人の上に、冷たい水が降ってきた。  「冷てェ!!…何すんだ!ジジィ!!?」 ゼフが、バケツの水を浴びせたのだ。  「やるなら他所でやれ!!みっともねェ!!」 バタン!! 勢いよく、木のドアが閉められてしまった。  「おい!クソジジィ!!おれは被害者だぞ!!なんでおれまで!?」 再び扉が開いて  「そいつがてめェを好きだって言ったのが始まりだ!!てめェの事だろうが!!」  「納得できねェェェェ!!」 仕方がない。  「場所帰るぞ、来い。」  「………。」 好きって… あり得ねェだろ? 中学2年生か。 一番、そういう事に興味がある時期か。 おれもそうだった。 だったら わからせてやらなきゃな…。 観光客が多いこの時期、店の周辺で静かな所なんてあまりない。 仕方がないから、湖を周回するハイキングコースに入って歩いた。 湖といっても広くない。 向こうの岸まで200メートルくらいの小さい湖。 林の木々が、山から下ろす涼しい風に揺れている。 茶色くなれずに落ちてしまったコナラの実が、木道の上に転がっている。  「なぁ、ゾロ…お前な、勘違いしてるだけだ。」  「勘違いなんかしてねェ。」  「勘違いだよ。…あのな…なんでおれだ?…学校に、可愛い女の子とかいねェのか?いんだろ?」  「ずっと前からお前が好きだったんだ。よそに目が行くか。」  「………。」 タバコが欲しい。 だが、地元で商売するサンジ。 どこでだれが見ているかわからない。 こんな場所での歩きタバコはご法度なのだ。  「…好きな奴いるのか?」 ゾロが尋ねた。  「いるっつったら…どうする?」  「関係ねェ。」  「あ、そ…。」 その場逃れの嘘も通じないって? …確かに…今は付き合ってる子も、好きな子もいないけどな…寂しい事に。  「じゃ、嘘も誤魔化しもなく、本音を言うぞ。」  「おう。」  「…毎年、ほんの数日、東京から来てすぐにまた東京に帰っちまうガキが、アホな事言ってるとしか思えねェんだよ。」  「じゃあ、どうしたら本気だとわかる?」  「…そうだな…。」 意地が悪かったと思う。 なんで、あんな意地悪を言ったかわからない。 冗談にしてはあまりに度が過ぎた。 中学生のゾロに、それ以上が出来るなんて思ってなかった。 どうせ、夏休みが終われば帰るヤツ。  「……100日、通えるか?」  「あ?」  「…なんか…そんな話聞いたことあるんだよ。“本気なら、100日通って逢い来て”…。」  「“通小町(かよいこまち)”だ。」 ゾロが言った。  「へぇ、そうなんだ?」  「…平安時代の歌人…美人の小野小町に恋した男が、小町にそう言われて通うんだ。」  「さすが現役中学生だねェ…うん、それだ。」  「………。」  「できるか?」  「できる。」  「………。」 出来っこねェくせに…。 なんかムカつくな。  「じゃ、やってもらおうか?」 計算すると、丁度今日から100日目は、店が営業を終える日だった。 雪の深いこの地域の観光客相手の商店は、大概冬期休業になる。 冬の間は、おれもジジィも、その県の県庁所在地のある市の家の方に移って冬籠りする。 クリスマスに、知人のレストランやホテルでバイトしたりして、また春にここへ帰ってくるのだ。  「100日、通い切れたら信じてやる。」  「本当だな?」  「ああ。」  「100日通ったら、お前を抱いていいんだな?」  「…は?」 抱く?  「…って、おれそっちのポジションなワケ!?てか、そこからお付き合いが始まるんじゃねェのか!!?」  「んな、悠長な時間要らねェ!!」  「ちょ…待て!!」  「約束したからな!!100日!!」  「おい、待てゾロ!!」  「また明日来るぞ!!」 ……あいつ、声変わりしかけてんな…ハスキー……。  「って、そうじゃねェ!!…抱くって…抱く!!?おれを!?」 我に返った時 もうゾロは、林の向こうに紛れて見えなくなっていた。 宣言通り 翌日からゾロは、毎日『アクア』へやってきた。 注文するモノがブレンドになった。 砂糖もミルクも入れず、苦いのを我慢してゆっくり1杯を飲んで帰っていく。  「ごっそーさま。」 ムスッとした声で言いながら、コーヒー代500円をカウンターに置いていく。  「ありぁとあしたー。」 おれも、ムスッとしながら500円を受け取る。 その500円を、ジャムの瓶に落とす。  「仏頂面しながら、数えはすんのか。」 ゼフがぼそっと言った。 10日目のこと。 瓶の中、500円玉で5000円。  「…今日で夏休みも終わりだろ?…今日までだ今日まで!」 と、思った。 実際、翌日ゾロはいつもの午後の時間に来なかった。 だから、「ほら見ろ、やっぱり。」と思ったら、夕方5時ごろやってきた。 それも  「おい、なんだそのカッコ…?」 現れたゾロは、この近くの学校の制服を着ていた。  「…お前…まさか…。」  「転校した。」  「転校!!?わざわざ!?」  「たりめーだろ。100日通うんだ。あっちの学校行ってたら来られねェ。」  「って…!!お前…両親がよく許したな!!あっちの学校、私立の名門なんだろ!!?」 黙ったまま何も答えないゾロの前に、ゼフが今日のブレンドを置いた。 肩を震わせて笑っている。  「笑うなジジィ!!」  「強敵だな。」  「………!!」 夏が終わった。 風が冷たくなって秋が来た。 秋は深くなり、風はどんどん冷たくなって、陽が落ちるのも早くなる。 ゾロの100夜通い(?)は途絶えなかった。 学校が終わった後、夕方の5時ごろには必ずやってきた。 黙って入ってきて、黙ってカウンターに座って、黙ってコーヒーを飲んで、黙って500円玉を置いて帰っていく。 葉が染まり、葉が落ち、山肌がグレーに染まり、山のてっぺんが白く染まり始めた。 ジャムの瓶は、3個目に突入していた。 通ってきていても、ゾロはおれに何も言わない。 余計な事は言わないとでもいうように、毎日通っている事で、自分の信念を示しているかのようだった。 月が変わって、営業時間が短くなった。 毎年の事だ。 外が寒くなると、人の出が全くと言っていいほどなくなる。 ディナータイムを止めて7時には閉店してしまうが、ゾロは、その閉店までいて黙って帰っていくようになった。 100日まで 10日を切った あと9日 あと8日 あと1週間 あと6日 あと5日 あと4日 あと3日 あと2日 明日で 今季営業終了 500×100=50,000円 …結構デケェ数字… えと 100日目 明日 おれ、やっぱり…その…えと…抱かれ…る…のか? ど、どうしようか… なんか準備いるのかな? って、おい!抱かれる気満々か!?おれ!! 違うだろ!?  「あ。」 店を出ようとしたゾロが、珍しく声をあげた。  「どうした?」 おれも思わず尋ねた。  「雪だ。」 ホントだ、雪だ。  「初雪だ…。」 無意識に ゾロの隣に立っていた。  「………。」 視線を感じて、ゾロを見た。 綺麗な目が、真っ直ぐにこちらを見上げていた。 きっと もうすぐ まっすぐ、視線を交わす時が来るんだろうな…。 明日  「100日目だ。」 ゾロが言った。  「…そだな…。」 顔が近付いた。 不思議だ 嫌な気がしない… そのキスは 雪の様に軽くて、でも暖かかった。  「…明日。」  「…おう…。」 照れくさそうに、だがどこか安心した笑顔で、ゾロは粉雪の舞う中へ出て行った。  「…まぁ…それでもいいか…。」 明日が ちょっと待ち遠しかった。 なのに 次の日 100日目 ゾロは来なかった。 閉店の7時の時報が鳴っても、店のドアは開かれず、カフェ『アクア』はそのシーズンの営業を終えた。  「知ってるか、チビナス。」  「なんだよ…。」  「『通小町』の、男が100日通いきったかどうか。」  「知らねェよ。知りたくもねェや。」 本気で悩んだのに、アホみてェ…。 中坊に振り回されて、中坊相手に本気にあれこれ考えて…。 あんな優しいキスまでしたくせしやがってあの野郎…!! もう 思い出したくもねェ こんな真似して、あの野郎ももうここへ来れねェだろ? 仮に来たとしても、誰が店に入れてやるか! あの時みたいに蹴り飛ばして、ついでに湖に投げ込んでやる! 二度と 二度と逢う事ねェよな もう…。 思い出したくもない出来事 それがトラウマになったのか、あれからおれは、一度も誰かを好きにならなかった。 ってさ…。 おれ、ゾロが好きだったのか? おれより背の低い、9歳も年下の、中学2年生のゾロを。  「………。」 そりゃあさ 99日も熱心に通ってくれりゃあ…。 5年 あの次の年の夏休み、ゾロは店に、この街に来なかった。 翌年も。 その次の年も、その次も。 腹立つけど いい加減、傷は癒えてきた。 あれから5回目の夏休み。 今年も、夏の行楽シーズン、最後の稼ぎ時。 ジジィは忌々しいくらいに元気に、今日もコーヒーを淹れている。  「ごちそうさま。とても美味しいリゾットだったわ。相変わらずいい腕ね、サンジくん。」  「ありがとうございます。喜んでいただけて嬉しいです、マダム。」  「また、秋の連休に来るわね。その時はディナーをお願い。」  「はい。とびっきりのワインをご用意しておきます。」 常連の、別荘の夫婦。 ここ2年くらい、いつも一緒だった娘さんが姿を見せない。 彼氏が出来たと言っていた。 可愛い子だった。 確か、ゾロと同じ歳…。  「……まぁた、思い出す……いい加減にしろ、おれ……。」 100日、通ってきてください。 そうしたら、あなたの愛に答えましょう。 あの後、ジジィに聞くのは癪で、自分で調べた。 小野小町に恋した男の名は、深草の少将。 少将は、99夜目に、病にかかって死んでしまったのだという。 それを儚んで小町は泣いた。 泣くくらいなら、初めっから受け入れればよかったのに。 まぁ、99日も通ってくれれば、誰だって気持ちは動くんだよ。 ふと、時計の針に目をやった。 もうすぐ3時、ランチ終了の時間…。 ドアが開いた。 ランチ最後の客かな?  「いらっしゃいま…。」 たっぷり 1分は呆然としていたと思う。  「………おす。」 その一言に がららぁぁん…くわんくわんわんわんわん……。 落したトレイの大きな音が、ずいぶん遠くに聞こえていた。 おれと、ほとんど同じ高さにある琥珀の目。 少し、堅くなったように見える髪、マリモみてェな緑色。 さすがに、学生服は着てねェな……。  「……ゾロ……。」 なんで?    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