BEFORE


 「サンジ。」 その日、出勤したサンジを、ロビンは南に面した回廊で呼びとめた。  「何?ロビンちゃん?」 歩み寄りながら、ロビンは  「この前の時計。どうするの?このまま修理を進めていいの?」  「…あ…。」 曾祖父アレクサンデルの時計。 文字盤の裏側、ブルックの祖父への言葉を記した文字。  「ブルックの事があったから、待っていてもらったけれど…。」  「…ああ…そうだ…ごめんね…!うっかりしてた。」  「いいのよ。それどころではなかったもの。…生きている人の方が大切だわ。」 サンジはうなずき、そして  「このまま…修理してもらっていいよ。」  「いいの?」  「…ああ…。」 微笑んで、サンジは  「事実がわかっただけで…十分だ。」  「…そうね…じゃ、伝えておくわ。」  「ありがとう。」  「…あ…。」  「…ん?」 行きかけて、ロビンの声にまた立ち止まる。 だが、ロビンは少し考え  「…今、尋ねる事ではないのかもしれないけど…。」  「…何?」  「…あなたはこの先もずっと…ここで暮らすつもり?」  「………。」 サンジは、思わず何かを言いかけながら黙り込んだ。  「…そのつもりだよ?」  「…ためらったわね?」  「………。」 ロビンはまた、サンジに歩み寄り  「わかっているわ…あなたはそう望んでいることを。  でも、あなたはゾロと違ってしがらみがある。」  「………。」  「…ドイツの家族が…素直に許してくれているとは思っていないわ…私はね…?」 サンジは笑い、首をかしげた。  「…じいさん達の時代じゃないよ…今は、自由を求めていい時代だ。」 「でも」と、ロビンは言い  「…あなたは優しいから…。」  「………。」  「…ブルックと…何よりもゾロを…悲しませるような事をしないで…。」  「しないよ。」  「…素敵な即答ね…。」  「……!!」  「…まるで自分に言い聞かせているみたい。」  「…ロビンちゃん…。」  「…力が要るなら遠慮なく言って。困っているのなら相談して。  辛いのなら…甘えていいのよ?」  「………うん。」 サンジの答えに、ロビンは軽く腕に手を添え、執務室へ戻って行った。  「………。」 この長い回廊は、尾田の場所に立っていた頃は北向きで、冬になるとひどく寒かった。 だが今は、東南を向いているおかげで暖かい。 そして回廊終わりの真正面の窓に、あの藤の木が見える。  「………。」 女性は人の感情の機微に敏感だ。 隠していても、ほんの些細な事でわずかな揺らぎを感じ取る。 実は ロビンの言う通りなのだ。 ゾロは自身の係累を失っているが、サンジはそうではない。 すでに両親は他界していたが、サンジには父方の叔父夫婦がドイツにいる。 その叔父には息子がいるのだが、この叔父が、典型的ゲルマン精神の持ち主で、 サンジが一度ドイツに戻り、財産・爵位の全てを放棄して叔父とその息子に譲ると言い出した時、 叔父は夫婦息子家族揃って猛反対したのだ。  「お前が正統な後継者なのだ!そんな勝手は許さん!!兄に顔向けが出来ん!」 そう言い続ける叔父らの制止を振り切って、サンジは逃げる様にドイツを飛び出してきた。 許され、祝福されて、ここにある訳ではない。 アレクサンデルと同じだ。 それは、サンジの中で小さな種火のように燻っている。 誰にも話していない。 ゾロにさえ。 なのに 女性は、本当にすごいや…。  「……綺麗だ……。」 庭の藤が咲いた。 昨年、この館に入ったのはこの花が終わった後であったから、サンジは初めて 広い棚に咲く白い天蓋の様な花を初めて見た。  「藤だ。白藤。」  「フジ…不死?」 花を見上げながら、サンジが尋ねる。 ゾロは首を振り、土の上に棒きれで  「…藤…こう書く。」  「…うわ…全然わかんねェ。」  「ドイツじゃなんていうんだ?」  「…種類が違うかもしれないけど…ウィステリア…が、そうじゃないかな?」  「ふーん。」 冬が過ぎ、水仙が咲き、梅が咲き、桜が咲き、牡丹が咲き、そして藤が咲いた。 尾田廣澤倶楽部。 春、盛り。 冬の間に、サンジは必死に言葉を覚えた。 書く方はまだまだだが、日常会話はもう問題なく交わせるようになった。 凄まじい学習欲だった。 言葉が通じる様になり、互いに理解が深まったかと言えば… 少し疑問が残る。 毎水曜日、ゾロはここに通っているが、二度に一度は  「クソバカマリモ野郎!!二度とくんな!!」  「この面白グル眉毛!!とっとと国へ帰れ!!」 と、互いに捨て台詞をぶつけ合い「ふん!」と、悪態をついて別れる。 近頃は、これがこの2人の挨拶なのだと、女中たちは呆れながらもほほえましく見守ってくれるようになった。 逆に、互いに言葉が通じる様になって、さらに情が深くなったように思える。 そして、サンジの乱れ切った日本語に黒木が仰天したのは、大方の予想通りだ。  「なァ、ゾロ…お前もドイツ語を覚えてみねェか?」 藤の木の下で、サンジが言った。 ゾロはわずかに眉を歪めて  「…おれがドイツ語を覚えてなんの役に立つ?」  「………。」  「意味がねェ。」  「…意味はあるさ。」  「あァ?」 サンジは笑い  「おれが嬉しい。」  「………。」 時折、素でこういう事をさらりと言う。 素直なのかひねくれ者なのか、いまひとつ測れない。  「お前がドイツ語を話せるようになったら、黒木をクビに出来るしな。」  「そこか。」 そんなことになったら、それこそ黒木がおまんまの食い上げだ。 サンジがその気になって、「自分が通訳する」と言い出したら、黒木は職を失う。 だから、ゾロが一日も欠かさず廣澤倶楽部に通ってくることは、黒木にとっては面白いことではない。 しかし、ゾロが近頃、聞き覚えたドイツ語をかなり流暢に話すようになってきたので、 わが身の安泰に不安を感じてきているらしく、近頃はサンジへの風当たりが柔らかくなり、 ゾロへ嫌味を言う事も少なくなった。 本当に、息子が日本で得た友人は、信じがたい程に頭が良く賢い。 きちんとした学校に通わせれば、望む道があるのならその道を究める事が十分に可能であろうとゼフ・ローゼンバインは思う。 彼のおかげで、息子は本来の明るさを取り戻し、影を刷きはじめた心からそれを払いのける事が出来た。 感謝している。 多くを望んでいなかったが、息子を、日本に伴ってよかったとそう思っていた。 聞けば、あの青年には他に身寄りがないという。 元はシゾクで、育てた親は実の親ではなく、どうやらカシン(家臣)であったらしいと聞いた。 明治維新さえなければ、かなりな身分の出自だったのだという噂もある。 彼が承知してくれるなら、帰国の折、ドイツに連れて行きたいとさえ考えていた。 夢があるなら叶えさせ、息子のよい友人として側に置いてやれたら。 自分としても、優秀な息子が増えるようで嬉しい。 そんな『赫足』ローゼンバインが、正式に精錬技師見習いに ゾロと他数人の人夫を指名したのは、庭の白藤が満開となったその日の事だ。  「…今日、頭に言われた。新しい機械を入れるから、そっちの仕事に変われとよ。」  「親父に聞いた…去年見つけた新しい鉱脈の採掘を本格的に稼働させるって。」 最近は、話す言葉と同時に文字も覚えようとしている。あまりに意欲的なサンジに、ゾロの方が閉口しがちだ。 その日も、藤の木の下にテーブルを運びそこでサンジは本を開いた。  「今度はこれが読みたい。」  「…また、どこから持ってきたんだ…『湖月抄』…源氏物語かよ…。」 あからさまに、うんざりとした顔を見せるゾロに、いかにも古びた黄表紙本を掲げてサンジが言う。  「素敵な恋物語が無いか?って、トクさんに聞いたら  『じゃあ、ゲンジモノガタリですね』って教えてくれたんだ。」 テーブルにうず高く積まれた江戸時代の黄表紙本。 カナも古いので読むのに苦労しそうだが。  「これで全部じゃないんだって聞いてびっくりした!!」  「…『湖月抄源氏』なら…多分60冊はあるな…。」  「すげェ!壮大な恋物語だな!…ちょっと待て…おれ、20冊くらいしか  持ってねェな…完結するのか?これ?」  「…完結より先に飽きる。てか、主人公の源氏に腹が立つ。おれは嫌いだ。」 ゾロの一刀両断に、サンジは目を丸くする。  「ちなみに一応完結はしてるけどな。おれは渋々読んだが、源氏が若紫を襲った辺りでムカついて放り出した。  男の風上にもおけねェ野郎だ。主人公はひとりだが、相手の女は数えきれねェ。  腹立つより呆れかえるぜ?それでも読むか?」  「…千夜一夜物語か…てか、そんな不実な男が主人公なのに、なんで人気があるんだよ?この本?」  「さぁな。女の頭はわかんねェ。ホントは桐壷が、帝とデキた辺りで放り出したかった。」 後に、源氏物語を読んだサンジは、それがあまりにも話の冒頭過ぎて呆れかえることになる。 義父のコーシローは、ゾロがあまりにそちら方面に興味を持たない事に不安を感じ、 「たまには」と、与えたらしいのだが、かえってこの題材は裏目に出たようだ。 ふと、ゾロは頭の上の藤を見上げ  「主人公が最初に惚れた女が『藤壷』って名前だったな。」  「…へェ…この花と同じ名前か…美人だったんだろうな。」  「作り話だぜ。」  「そこを想像するのが楽しいんじゃねェか…。」  「わかんねェ。」  「やっぱ、読も。…ゾロ、お前も本を読むんだな?どんな本が好きだ?」  「……近頃はあんま読まねェ。ガキの頃は、親父にうるさくあれこれ読まされたが…  ああ…あれが面白かったな…ろびんそんナントカってのが海で遭難する話。」  「…ロビンソンクルーソーか?おれも読んだ!!面白かったよな!?」 ゾロが「へェ」と声を上げ  「外国の話だとは思ってたが…。」  「こっちは知ってるか?ベルヌの『月世界旅行』と『80日間世界一周』!あれも面白いぜ!」  「…そっちは知らねェな。それに本は高価だからよ…。」  「あ。」 瞬間、サンジが言葉を詰まらせたのに、ゾロは歯を見せて笑い。  「どんな話だ?」 自分と同じ年なのに、ゾロはずっと大人だ。 重ねた苦労のせいなのか、自分があまりに物知らずで幼いのか…。 ふと 俥を呼ぶために行った、花街での出来事を思い出した。  「………。」 姿を見せた女達はゾロを見るや、途端にしなを作って名を呼んだ。  「…なァ…ゾロ…。」  「あ?」  「…レディと過ごすのは好きか?」  「レディ?」  「…あ…ああ…女性の事だ。」 ゾロはテーブルに肘をつき  「…好きとはいえねェな。女はくどいし、あれこれメンドくせぇ。」  「…好きでもないのに…ああいう場所には行くのか?」  「ああいう場所?」 ゾロは少し考え  「末町の事か。」 銅の町の花街は、末町という地区にある。 男と女が辿り着く末の町、だから末町と呼ぶようになったという。  「飯食って酒飲んで、ついでに寝てくるだけだ。珍しい事をしてるわけじゃねェ。」  「ついで…って…ひでぇ事言うな…。」  「…金は払うんだ。向こうも商売。それ以上のものはねェ。」  「…好きなレディがいて…行くんじゃないのか?」  「そんなもんいねェよ。」 ゾロが答えた瞬間 サンジは心の中で、ホッと息をついた。 そんなもんいねェ その即答を、喜ぶ自分がいた。  「…最近は…行ったのか?あれから…?」 サンジの問いに、ゾロは事もなしに  「行ってねェよ。ヒマがねェ。誰かさんのせいでよ。」 その答えに、また―――。 目を逸らし、サンジは言う。  「……悪かったな。」  「へェ、自覚あったか?」  「―――!!」 1時間後  「クソバカマリモ野郎!!二度とくんな!!」  「この面白グル眉毛!!とっとと国へ帰れ!!」 いつもの「挨拶」を交わし、その水曜日が終わった。 新しい鉱脈は巨大なもので、文字通りのお宝発掘に廣澤男爵は手を打って小躍りまでしたという。 その坑道入口が有木という地区に作られ、その近在に新たな製錬所が建つことになった。 有木製錬所と呼ばれるその施設は、当時開発された最先端を行く技術を投入し、 突貫工事で完成したのはその年の秋だ。 もちろん、その製錬所を取り仕切り、技術の全てを注ぎ込んだのはローゼンバインである。 彼はさらに、その製錬所で銅を取り出す際に発生する亜硫酸ガスから、硫酸を作り出す技術も伝授した。 それまで、鉱山を中心に亜硫酸ガスの煙害に見舞われていたが、これで少しは緩和されるはずだ。 尾田の廣澤倶楽部は、銅の精錬における害毒の全てから逃れる場所に立っている。 だから、鉱山や鉱夫の住居から遠いのだ。 そして、ゾロもまた、新しい鉱脈の坑道口に近い社宅に移ることになった。 それは、尾田の廣澤倶楽部から、さらに住まいが遠くなることを意味していた。  「…すまねェ…毎週は来られねェかも知れねェ。」  「………。」 その日、いつもなら夕刻にはやってくるはずのゾロは、かなり遅い時刻にやって来た。 女中のおくまが言っていた。  「このところ、山の仕事がいつにも増して忙しないようですからねェ。  今日は無理かもしれませんよ。」 けれどゾロはやってきて、その一言を最初に告げた。  「…そうか…そうだよな。」 サンジは肩をすくめ、笑った。 緑の葉をすっかり落としてしまった、寒々しい藤の木の下。  「わかるよ。親父だって、あっちに詰めっきりだ。」  「…悪ィ。」 本当に、申し訳なさそうにゾロは言った。  「…無理…することは…ねェよ…だってさ…ホラ…もうこれだけおれも話せるようになったし…。」  「………。」  「おれの雑用ごとに…お前を呼ぶわけにはいかねェよな?お前、もう技師見習いなんだから。」  「………。」  「…無理はするなよ?マジ…事故だけは気をつけろ?あ、そうだ…もし、ケガとかしたら…。」  「来る。」 いきなり、ゾロが言った。  「え?」  「…来る。やっぱり来る。遅くなってもいいだろ?」  「………。」  「今日はもう戻らなきゃならねェが、来週、今度はもっと早い時間に来るからな!」  「…って…おい!?なんだよ、てめェ!どういう事だ!?忙しいんじゃねェのかよ!?」  「忙しい!目が回るくれェにやることが多くてかなわねェ!!  これなら、ただ穴掘ってるだけのがマシだ!!」  「だったら…!!有木からここまで10キロはあるんだぞ!?」  「何とかならァ!!」  「ゾロ!!」 身を翻し、戻ろうとするゾロを追い、思わず腕を掴んだ。  「いいんだ!!無理はするな!!」  「してェんだよ!!」  「―――!?」 ゾロは、大きく肩で息をし  「……てめェと話すのは…おれも楽しいんだ……。」  「…え…。」 ドキン  と サンジの心臓が鳴った。 だが  「…アホぬかせ…遊ぶ時間があったら…スエマチにでも行きゃあいいだろうが…!」  「てめェに、知らねェ世界の話を聞く方が楽しい。」  「………。」 ゾロは笑い  「『月世界旅行』のあらすじも、まだ全部聞き終わってねェしな。」  「………。」 サンジは思わず背を向けた。 ゾロが、色街の女や鉱夫長屋の子供たちに、人気がある理由がわかる気がした。 こんなに素直に、真っ直ぐに、自分の気持ちをぶつけられたら、誰だって胸が締め付けられる。 何よりも、誰よりも、自分との時間を優先しようとするゾロが―――。  「…おい、何泣いてんだ?」  「……え…?…あ……。」 ゾロの眉が、ギリッと吊り上った。 男が泣くな、みっともねェ そう、言われると思わず身構え涙を擦った。  「……てめェのそういうツラが一番キツイ。」  「………。」 どう言えば、何を言えばいいのだろう? 告げる言葉がわからない。 たくさん、たくさん、日本語を覚えたのに、今、告げたい言葉が出てこない。 自分の為に、ゾロに無理をさせたくない。 過酷な労働環境で疲れているのに、さらにそれを強いる事をしたくない。 けれど、逢えなくなるのは嫌だと、叫びたい自分も確かにいる。 この気持ちはなんだろう? わからない いや、わかりたくない…。 サンジが、言葉を探り、必死に紡ごうとしているのをゾロは根気強く待っていた。 その時だ。  「…おお…ゾロ、来ておったか?」 庭を望むテラスから、ゼフがこちらを見ていた。 ゾロが、頭を下げる。  「お、おかえり!帰ってたのか…?」  「…ひと段落ついたからな…風呂に入りたくて戻った。  丁度いい…アレクサンデル、通訳してくれ。」  「…あ…うん…いや、はい。」 涙の跡を隠す。 ローゼンバインは、息子がこちらを見るのを待ち  「…有木の製錬施設に建てた溶鉱炉に、掘り出した銅を塊状化して流し込む技術として焼結がある。」 サンジが、通訳するより早く  「はい。」  「……!!」 ゾロは答えた。サンジが驚いてゾロを見る。 ゼフも一瞬驚いたが、微笑んで  「グリナワルド焼結機という機械がある。だがここのそれはまだ小型で、  大量の銅の製錬をするには向いていない。  しかし、これの大型機械がすでにアメリカで完成されている…  この機械をバロン・ヒロサワが購入した。が、扱うには少々技術が要る。」  「………。」 さすがに難しい言葉が続き、サンジは考え考え言葉を繋げた。 そして  「お前に任せたい。」  「―――おれが?」 また、サンジの入る間がなかった。 少し、頬を膨らませ、サンジはゾロを睨む。  「…扱いは慎重にせねばならん。教えるにも、クロキを通じて教えるのは不安が多い。  お前なら、ある程度言葉が通じる。」  「………。」 ゼフは、トン、と杖を床につき  「明日から、お前にグリナワルド焼結法を学んでもらう。  …身の回りの物をまとめて来い。」  「…………は?」  「…………え?」 ゾロとサンジが同時に呟いた。  「有木の方も落ち着いた。こちらが急務だ。会社には明日伝える。」  「赫足…!いや…!ヘル・ローゼンバイン…!」  「父さん…!?」 行きかけてゼフは振り返り、あからさまな喜びを顔に浮かべた息子へ  「勘違いするな、アレクサンデル。」  「!!」  「…この男が重宝だから選んだ。何もお前の為ではない。」  「…でも…ありがとう…!」 そして、ゼフはゾロへも  「…おれは、実力第一主義だ。他にもっと使えるものが現れたら、  いつでもそちらに仕事を与えるからな。」  「わかってます。」  「……では、明日だ。」  「はい!」 2人でゼフを見送ると、サンジは大きなため息をついた。  「…なんだよ…クソ親父…クソ…泣いて損した…。」  「…ほー、泣くほどおれが来なくなるのが嫌だったんか?」  「ばっ…!!」 白い顔に、一瞬で朱が刷かれた。  「…てめェなんか…!!」 憎らしい程の、ゾロの勝ち誇った顔。 同じように、根拠のない自身に満ち溢れた表情でも、ゾロのそれはなんて明るく真っ直ぐなのだろう…。  「…『月世界旅行』…。」  「おう?」  「…少しずつだけど…翻訳してやるよ。お前が読める様に。」 サンジの言葉を、ゾロは鼻で笑った。  「…なめんな。ドイツ語のまま読めるようになってやらァ。」  「……言ってろよ。」 もう 心が止まらなくなっている事に、サンジは気づいた。 否定し、必死に止めようとしているこの想いが何か、本当はもうわかりかけている。 それでも、止めなければならない。 そうしなくては、自分がここに来た意味がない。 自分の抱いた想いを認めてしまったら、王を拒んだ自分と、権力という強い風に 晒され苦しむ父と母と姉を、どれだけ悲しませ、苦しませることになるのか…。 何よりも ゾロの、自分に対する思いは「友情」以外のものではない。 ものに、なるはずもない。 残り2年、密かに想い抱いても、時が来て別れを告げればそこで終わる。 ゾロには、友情だけの思い出が残る。それでいい。 何よりゾロが、引きたてられ、今の底辺の生活から逃れられる手助けができるのなら、 おれは何でも協力しよう。 お前の為に、なんでも その為なら、どれほど辛くてもおれは、お前の前では笑っていられる…。 サンジとは裏腹に、通訳として雇われている黒木がその状況を喜ぶ訳がない。 息子のアレクサンデルが日本語を覚えたのだ。 しかしゼフは、公私混同をする男ではない。 だから、黒木の仕事を息子に代わらせることはないが、いつお払い箱になるか分かったものではないのだ。 ここを辞めて、他に仕事を求めてもいいのだが、お雇い外国人が自分の学んだ言語国の人間だとは限らない。 何より 元は士族とはいえ、今は泥まみれの人足。 そんな男が、たった1年で同じ屋根の下に住むまでにのし上がってきた。 しかも、自分が何年もかけて習得した言葉を、その短い期間でほとんど不自由なく話せるようになっている。 こんな屈辱があるか…。 廣澤倶楽部に、ゾロが本当にわずかな身の回りのものを携えてやって来たその翌日から、 ゾロの勉強は始まった。 夜、仕事を終えて戻ってきたローゼンバインが、自分の書斎でゾロに銅の製錬法を叩き込む。 不純物まみれの鉱石を、銅という物質にして取り出すための工程は科学だ。 ローゼンバインは、まずそこからゾロに学ぶことを求めた。 試練は早々にやって来た。 アルファベットを使う化学式を覚えなければならない。 マントルピースのある食堂、明け方に、テーブルに突っ伏して眠りこんでいるゾロの姿をよく見る様になった。 それでも、サンジが揺り起こすと、どうにかこうにか目を覚まして有木の坑道に出かけていく。  「体にいいもの…食べさせねェと。」 日本には、「男子厨房に入らず」という言葉があるという。 けれど、女中たちにただ命じて、食事を用意させるだけなんて嫌だ。 朝食も、弁当も、夕食も、そして夜食も、ゾロの分はサンジが作るようになった。  「ゾロさんは果報者ですよ。坊ちゃんにあんなに大事にしてもらって。」 ある朝、出がけのゾロに若い女中が言った。 それに対し、ゾロは奇妙に眉を歪めてみせたが  「確かに、メシが美味ェのは張り合いがあるな。」 女中が、そのゾロの答えを後でそっと教えてくれた。 笑顔が見たい。 喜ぶことをしてやりたい。 水曜日だけではなく、毎日ここに帰ってくる。 それが、こんなに嬉しいことだなんて思いもしなかった。 その日、尾田に雪が降った。 この地に来て、冬を迎えるのは二度目だ。 昨年の秋にこの地に来たのだから、あともう一度、この空から降る雪を見る事になる。 もうすぐ、1年が終わる。 姉から、クリスマスカードが届いた。 父と自分が日本に発つ前に急ぐように嫁いだ、自慢の大好きな姉。 母も、自分も夫も、元気でいるという近況報告。 だが 姉の手紙の最後の文章に、サンジは思わず背筋を震わせた。  6月に国王陛下がシュタルンベルクでご崩御されました  弟君、オットー様が国王になられました それだけの、箇条書きの短い文章。 思わず、サンジは手紙を右手ごと握り込んだ。 王が死んだ。 驚くと同時に、大きな安堵がどっと押し寄せる。 よかった と、不敬にも思った。 だが、構うものか。ここは日本だ。 王が死んだと聞いて笑い飛ばしても、誰も咎めはしない。 姉も同じ思いだろう。だから、服喪でありながらクリスマスを祝うカードを送ってきた。 これで、サンジがバイエルンに帰っても何の障りもなくなった。 新しい王になり、時が過ぎれば、あんなものは一時の気の迷いと、皆忘れてくれる。 帰る バイエルンへ ドイツへ  「………。」 帰る のか? おれは  「………。」 と  「う〜〜〜〜!寒!!」 突然の声に、サンジは手にした手紙を思わず取り落とした。 慌てて拾い上げながら、回廊から居間へ上がってきたゾロを見上げ  「お、お帰り!…んだよ!驚かすな!何で裏から来るんだよ!?」  「…あァ…クセだクセ。雪、すげェぞ。てめェこそ、なんだってこんなトコにいんだ?風邪ひくぞ。」 頭や肩に積もった雪を払い、ゾロは回廊から居間に面した扉を閉めた。  「…姉から…手紙が来たんだ…。」  「…?あったけェトコで読みゃいいだろ?」  「ん…あァ…そうだな…そうする。…お茶、淹れるな?」  「ああ、ありがてェ!!できるなら、あの酒を入れてくれ。」  「…やれやれ…覚えさせるんじゃなかった。」 サンジのため息にゾロが笑う。 この前、紅茶を淹れた際に、ブランデーを落としてやった。 日本ではなかなか手に入らない貴重な酒だ。 なのにゾロは遠慮なしに、ほぼブランデーの紅茶をよくねだる。 深々と降る雪 風が木々を揺らす音 湯の沸く音 香り立つ茶葉 芳醇な琥珀の酒の香 この穏やかな時を、永遠にしたい。 来年までではなく、その次も、その次も、こうして繰り返せたらどんなに…。  「日本は…やっぱりクリスマスは祝わないな。」 サンジが呟く。  「まァ、ついこの間まで、キリスト教はご法度だったからな。日本はやっぱり正月の方が大事だ。」  「…仕事、休みになるんだろ?さすがに、炉の火も落とすって聞いた。」  「松の内に関谷の溶鉱炉だけはな。有木は輪番制で年末年始も休みはねェ。」  「…なんだ…。」 少し、肩を落としたサンジにゾロが言う。  「二日までは休める。輪番だと言ったろ?」  「………。」  「日本の正月を教えてやるよ。」 サンジが陽の光のように笑うと、ゾロもまた笑った。 BEFORE    NEXT                     (2013/12/7) 華の名前-百億の夜-TOP NOVELS-TOP TOP