ブルックのリハビリに付き添って、週2日ケアセンターに来る。 もう、介助なしでも歩けるが、倒れる以前に比べると、歩く速度が少し遅くなった。 センターの掲示板に、『尾田廣澤倶楽部銅山歴史館・秋の特別展 銅の山・その栄華と黄昏』と書かれたポスターが貼られてある。 自分と、ほぼ同じ顔が印刷されたポスターを、サンジはじっと見つめた。 こんな 自由などなかった時代とは違う。 生きたいように、生きていい時代のはずだ。 「………。」 それに、もうバイエルン王国はなく、その後帝政ドイツは統一され、 一度は分断したが国家はまたひとつになった。 議会制の国だ。 首相はメルケル。女の首相だ。 もう、爵位がどうのという時代じゃない。 あんなもの、ただの箔に過ぎない。 少なくとも、自分には必要がない。 だから捨てたのに。 「………。」 切り捨てるには、叔父一家はあまりに善人だった。 サンジの両親は、サンジが6歳の時事故で死んだ。 その時、父の弟である叔父がサンジの後見人として、一時爵位と財産を委託された。 普通、そうなれば、その立場を利用してしまう事が多いが、叔父は全くその例から漏れた人だった。 サンジが18の成人を迎えるまで、本当に律儀にローゼンバイン家を守ってくれた。 なのに サンジは18の誕生日を前に、祖母の遺言を果たすためと日本に行ったきり一向にドイツに戻ってこなかった。 ようやく帰国し、さあ、いよいよ爵位を継ぐものだと思っていたら、全ての権利を叔父と その息子に譲る手続きを勝手に済ませ、彼らが呆然とする間にまた日本に行ってしまった。 好きな人ができたという。 しかも 叔父の怒りはもっともだった。 今でも、ひっきりなしに手紙が届く。 連絡先さえ知らせないのはあまりにどうかと思ったので、 尾田の郵便局留めの住所だけ知らせていた。 だが、ドイツで日本在住の手続きを取った際の履歴を探れば、 いずれブルックの家に辿り着くであろうとは思っている。 説得できる自信はなかった。 サンジは逃げてきたのだ。 家族を捨てても、ゾロと歩く人生を選んだ。 そしてブルックが、自分の本当の祖父だと思っている。 あの2人の想いは、おれとブルックの体の中に血液のように流れている。 ブルックと過ごす時間は、もうあまりないのかもしれないが、彼を間に、 ゾロと、ずっとこの先の長い時間をあの樹の下で生きると決めた。 何かを捨てなければならないのなら、おれは、ドイツの家族を捨てるしかなかった。 「お待たせしました!終わりましたよ、サンジさん。」 ブルックの声に、サンジは振り返った。 「ヨホホ。」 いつも、どんな時も、笑ってそこにいるブルックはすごいと思う。 思えば死んだ祖母も、いつもどんな時も、サンジにはいつも笑ってくれた。 さすがに、サンジの両親が死んだ時は涙を落としたが、涙を落としながら笑ってくれたので、 サンジは、葬儀の間はずっと堪えている事が出来た。 祖母の笑顔と あいつの 強く握ってくれていた手があったから 「帰ろうか。」 「ハイ。」 この町では、移動手段に公共交通を求めるのは少々不便だ。 なので、この県民の車の所有率は高い。 サンジも、ここで生活を始めてからゾロと共有で使う為に車を買った。 古い年式の、ワンボックスタイプの軽乗用車だ。 後部に、ゾロの商売道具が転がっていて、少し揺れるとガタガタ鳴ってやかましい。 「今日は、ゾロさんは月殿ですか?」 「ああ、出勤してる。来週から、海王園に頼まれた仕事で九州に行くから、 やれることやっとくってさ。」 「ヨホホホ!樹医のお仕事の方も順調なようですねェ。」 尾田の九尺藤世紀の大移植。 そして今、その藤は稀に見る広さと豪華さを持つ銘木となった。 ロロノア復活のニュースは業界を瞬く間に駆け巡り、樹医の仕事は年単位で入っている。 最近では、海外からも依頼が来る。 忙しく走り回り不在の事も多いが、サンジにはそれが誇らしかった。 小さなワンボックスが、角を曲がれば我が家という所まで来た時、 サンジとブルックは自宅周りの異変に気付いた。 「…なんだ?ウチじゃねェか?」 「なんでしょう?ずいぶん人が…おや!パトカーまで!?」 「まさか空き巣か…!?鍵はかけて来たぞ!?何があった!?」 道が塞がっているので、その場に車を停め二人は車を降りた。 すると、向かいのオバチャンがこちらに気付き、制服の警官に2人を指差して何かを言った。 警官は、帽子のつばに手をかけ軽く会釈しながら歩み寄り 「ブルックさんですね?」 「ハイ…あの、何か?」 警官は、サンジを見て 「こちらは?」 「孫です!」 ブルックの即答に、サンジは瞬間目を丸くしたが、ふわんと湧いた喜びが先に立って何も言わなかった。 「何がありましたか?」 ブルックの問いに、警官が 「お宅の庭に、不審な人物が入り込んでいると向かいのお宅から通報がありまして。」 「不審者!?入り込んだ!?」 サンジが叫ぶとオバチャンが警官を押しのけ 「そうなのよ〜〜〜!庭に入って、掃出しの窓から中を窺ってたのよ!!泥棒だ!!って、すぐ110番したの!! なのに、もう!今どきのパトカーは遅いのよ〜〜?10分近くかかったわ!! こんなんで市民を守れるの!?っていうのよ!?ねェえ!!?」 あー。ハイハイ。 そんなカンジで、警官がオバチャンをなだめる。 「身柄は確保したのですが…。」 「誰なんだ…ったく。ガラスとか割られちゃねェだろうな?」 サンジの言葉に警官は 「被害はなさそうですが…実は確保した人物、言葉が通じませんで。」 「え?」 瞬間 サンジの脳裏に嫌な予感が過ぎった。 「……外国人……?」 警官がうなずいた。 まさか 「…心当たりがありますか?」 警官が尋ねた。 サンジは答えず 「……どこに…います?」 「パトカーの中に。もしかしたら、お知り合いで?」 「………。」 「ヨホ?」と、ブルックが言った。 待っててくれ、という仕草で、サンジはゆっくり赤色灯が回ったままのパトカーに近づいた。 その時 「おい、何の騒ぎだ?」 声に、ブルックが振り返る。 ゾロだ。 「ゾロさん!お帰りですか!?今日はお早いですね!」 「…車に、竹鋸置きっぱにしてたんで仕事にならねェ。取りに来た。…何があった?」 「大変よゾロくん!泥棒よ!!泥棒が入ったの!!」 オバチャンがまくしたてた。 滅多にない『大事件』で、かなりテンションが上がっているようだ。 だが、ブルックが 「外国人だとかで…もしかしたらサンジさんのお知り合いでは…。」 「………。」 ゾロが、そこにいるのに気づきサンジの足は一瞬止まったが、そのまま身を屈め、パトカーの中を覗き込んだ。 「………。」 そして、シートに深く身を沈め俯き加減に腕を組んでいる相手を見て、 サンジは深いため息をつき、前髪をかき上げた。 気配を感じたか、顔を上げ、帽子の下から覗く目がサンジを見る。 サンジは背筋を伸ばし、警官に 「………すみません。知り合いです。」 「やはり。」 「…お騒がせしました。」 サンジの言葉に、オバチャンが「…あらあ…」と、バツの悪そうな声を上げた。 ブルックも、少し驚いた声で「ヨホホ?」と言い、ゾロは眉を奇妙に歪めながら、 パトカーから降りてきた人物を見た。 男だ。 背が高い。 サンジは、ゾロを見た目をそのまま相手に移し 「……ロー……。」 名を呼んだ。 「どちらですか?」 警官の問いに、サンジは答える。 「お騒がせしてすみませんでした。………おれの、従兄弟です。」 ローと呼ばれた黒髪の男は、サンジを通り越してゾロを睨みつけるように見ている。 ドイツには 、12月1日から25日までをカウントする、アドベントカレンダーというものがある。 アドベントとは待降節の意味で、「聖アンデレの日」からクリスマスまでの、 4回の礼拝日(日曜日)を祝うのだ。 12月に入ってから、その週の日曜日ごとにろうそくに灯を点す、 アドベントクランツという4本の燭台を立てる、クリスマス特有の飾りがある。 4本のろうそく全てに灯を点すと、クリスマスがやってくる。 この年、ゾロは生まれて初めて『クリスマス』を祝った。 教会がある訳ではない土地。 ゼフとサンジは2人でミサをし、キリストの降誕を祝い、使用人たちを招いて 食事を振舞い、穏やかなクリスマスを過ごせた。 その後、3人の女中と書生、技師見習いたち、そして黒木は、 松が取れるまでの休暇を得て廣澤倶楽部を出て行った。 帰る場所が他にないゾロだけが、ここに残る。 だが黒木だけは、有木製錬所が動いているため、正月3日で戻る事になっていた。 こんな田舎の町でもいくつかの寺がある。 尾田の廣澤倶楽部に一番近い寺から、夜半、除夜の鐘が響いてくる。 その音を聞きながら、ゾロとサンジは、この山里で一番標高のある鎌倉山に登り始めた。 さして高くない山とはいえ冬の夜。 2人はしっかりと装備を身に着けて、山頂を目指した。 慣れないサンジのペースはかなりゆっくりで、途中、 幾人かの登山者に抜かれる度、サンジはムスッと眉を寄せる。 「…ホントに…はァ…みんな山に登るんだな…はァ…。」 「誰もがそうとは言わねェがな。…ほら、手ェ出せ。」 「…いらねェ…はァ…てめェで登れる…はァ…はァ…。」 「…かわいくねェ…。」 「…テメェに…はァ…カワイイ…はァ…なん…て…はァ… 言われたく…はァ…ねェ…はァ…よ…っ!!」 言った側から 「うわっ!!」 雪のぬかるみに足を取られた。 仰向けに倒れる!思った瞬間、ゾロの手がサンジの手を掴んで引き上げた。 「!!」 勢いで、ゾロの胸に受け止められたような形になった。 「あっぶねェ。」 「………。」 ほんの一瞬 一瞬の、抱擁 「………っ!余計なお世話だ!!」 「うお!!」 それを条件反射という。 思わず、サンジはゾロの向う脛を蹴りあげていた。 「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!てんめェェェェェ!!」 「…あ…わ、悪ィ…つい…。」 「ホンットに!!クセの悪ィ脚だな!!」 「…っ…ご…めん…。」 「…まァ、いい…正月から怒鳴りたくねェ。」 ブツブツと、ゾロは再び先に立って歩き出す。 サンジも、黙ってついて行く。 「急がねェと、間に合わねェぞ。」 ペースが上がる。 サンジは、前を行くゾロの背中から目を逸らした。 俯き加減に、息を切らす様子を見せながら、ただひたすら足を前に出した。 あの王に 手に口づけられるまで、そんな世界がある事をサンジは知らなかった。 父母に厳しく育てられ、恋愛は、純粋で心穏やかで、慎ましやかな女性とするものだと教えられてきた。 だから、あの時の王の行為を嫌悪し、否定し、逃げてきた。 自分には、そんな嗜好はない。 あの時全身を走った悪寒は、全ての拒絶だと思っていたのに 何故 ゾロの手は心地よく、その腕に眩み、胸に酔うのだろう。 あの腕に、もう一度引き寄せられたい。 そう願う自分が、確かにいる。 ダメだ こんな汚れた感情 棄てるんだ 持っていてはいけない… もう、彼らの他に登ってくる者はいなかった。 ゾロの脚がさらに早まる。急げという無言の合図。 さすがにゾロの呼吸も荒い。 暗い空に、白い息が昇っては消える。 やがて 「…わ…。」 目の前に、人ひとりがやっと潜れる小さな鳥居が現れた。 その鳥居の前、周辺、人がいる。 幾人も 人々は、ゾロを見て笑って声をかけ、サンジを見て会釈し 「間に合ってようございました!」 「さあ!もっと、見晴らしの良い場所へ!」 狭い山頂の場所を譲ってくれた。 「あちらですよ!直ですからね!」 サンジが指差す方を見ると、地平線が、ほんのりと茜色に染まり始めていた。 初日の出 「御来光だ。」 ゾロが言った。 太陽が、東の空からじれったく登り始める。 すると、山頂にいた人々が一斉に手を合わせ、昇る朝日を拝み始めた。 「……なぜ、太陽を拝む?」 サンジの問いに、ゾロは 「…さあな…。」 「訳もわからずやってんのか?」 サンジの言葉を、側にいた鉱夫が聞きつけ 「訳は分かりやせんが、なんかありがたいじゃありませんか! 新しい年の初めての日の出ですよ!」 「いい年でありますように!って、お願いするんですよ。」 「…そうか…。」 確かに 「……Schön(綺麗だ)…。」 鎌倉山の山頂には、天照大神を祭った祠がある。 祠の正面は西を向き、背後から、陽が昇ってくる形に鎮座している。 鎌倉山という場所は、この銅山の谷の端にある山で、山頂に登れば一気に 東の地が開けて見えるのだ。 広大な、果てしない平野の彼方から昇ってくる朝日。 この朝日を また見たい ゾロと…。 ゾロとサンジはご来光を拝んだ後、鉱夫仲間に誘われて麓の長屋に向かった。 会社の社宅である長屋の軒先には、それぞれ質素ながら松飾りが置かれ、 家々で子供たちが正月遊びに興じていた。 凧揚げ、すごろく、羽根つき、コマ回し、福笑い、カルタ取り… 子供たちに誘われるがまま、おぼつかない手つき。 幼い子は、サンジが誰であろうと遠慮はない。 何度親に叱られても、一番へたくそな、変な色の目の男があまりに不器用なので、 青っ洟をすすりながら小馬鹿にしては笑う。 鉱夫の暮らしは楽ではないが、苦しくもない。 当時の小作人に比べたら、収入の良いものは多かった。 正月に下ろしたばかりの着物や下駄を、小さな女の子たちが自慢して見せる。 酒も、料理も、年に一度の贅沢と存分にふるまい合う。 明るい笑い声 「お獅子が来たよー!!」 長屋を巡る獅子舞が、木戸をくぐってやって来る。 太鼓と笛の音、拍子の鐘の音。 獅子が、大きな歯で子供たちの頭をかじる真似をすると 「何のまじないだ?」 サンジの問いにゾロが 「頭が良くなるように…病気をしないように…だったか?」 サンジがため息をつき、呆れた声で言う。 「お前、日本の正月を教えてやるって豪語した割にはなんにも知らねェな。」 「気分だ、気分。こういうもんに理屈はいらねェんだよ。 ついでだ。てめェも齧ってもらえ。」 「え?い、いいよ!」 一歩後ずさった瞬間 「うふわはああああ!!」 カプン と、齧られた。 不意打ちだったので、思わず奇妙な悲鳴を上げてしまった。 笑い声が響く。 少し酔ったのか、笑うゾロの顔も獅子のように赤い。 「…ふわぁ…眠……。」 言うなり、ゾロは他人の家の座敷に勝手に上がり込み、横になると 「…かー…。」 「うわ!もう寝た!!おい、ゾロ!迷惑だろ!」 「あっはっは!構わないですよ、坊ちゃん!寝かしておきなね!」 子供たちが、わっ!とサンジの腕に絡みつく。 「おにいちゃん、遊ぼう!」 「遊ぼう!」 小さな子供たちも、山で働く親の手伝いをするものが多い。 幼い子供らしく、丸一日遊びに興じていられる正月は、子供たちにとっても貴重な宝物のような一日だ。 ドイツにも、もちろんこんな場所があり、こんな人々や子供たちがいる。 日本に来なければ、サンジが交わるようなことは決してない人たちだ。 来て、よかった。 心の底から、そう思える。 そして、3年目の秋にはここを離れるが、また再びこの国に来る機会を得るには、 自分もまた多くを学び、技術を習得するのが必須だ。 学ぼう ゾロのように、たくさんの事を…。 夜になっても、ゾロはなかなか目を覚まさなかった。 遊び疲れた子供も数人、ゾロに寄り添うように寝入っている。 その日の帰りは遅いと父に言ってはあるが、このまま朝まで寝られてはたまらない。 何度も揺り起こしたが、なかなか起きる気配を見せない。 その屋の主は一坑道の班長で、何度も呼びかけるサンジに 「…寝かしといてやりましょう、坊ちゃん。正月、何が何でも休みてェって、 大晦日のギリギリまで夜っぴで働いてましたからねェ。」 「……ギリギリまで?」 そういえば、毎日帰りが遅かったり、戻らない日が多かった。 男は、一升瓶から濁った酒を湯呑に注ぎながら 「…あんたさんと約束をしてると言って…。」 「………。」 男が、わずかに声を潜めて 「まるで、惚れてるみてェなことを言いやすよ。」 「!!」 「ひゃっはっは!!」 からかわれた。 サンジは一瞬真っ赤になったが 「…いやいや!すいやせん!だが、ウソでもねェんですよ! ゾロのヤツ、坊ちゃんの話をするときは、本当に嬉しそうに話すんでさぁ!」 「………。」 そうなのか? そうなら 嬉しい…けれど… 思わず、ゾロの頭をクシャリと撫でた。 低く呻いて、寝返りを打ったが 「…んごー…。」 「…あー…ダメだこりゃ。」 男が、笑った。 突然、外で大きなざわめきが起きた。 「平作ンとこで寝てるってよ!」 「赫足の倅が一緒だって?何しに来たんだよ?」 「知らねェよ!貧乏人がどんな飯食ってんのか、見物に来たんじゃねェのか?」 「御大層なこった!どうせ、長屋の臭さに我慢できなくて、もう帰っちまってるよ!」 「ひゃっはっはっはっは!!」 と、三和土の戸がガタガタと開いた。 「ありゃ!まだ寝てんのかよ!」 顔を出したのは若い鉱夫達。 サンジの知らない顔が、いくつも並んでいた。 だが、自分と大して歳は違わない面子であろうことはわかる。 皆、山で働く男らしく鋼色の肌をしていた。 サンジの顔を見た瞬間、バツの悪そうな顔をしたが、「ども」と苦笑いしながら会釈をした。 寝転んでいるゾロを見るや 「なんだよ!久しぶりに、末町に繰り出そうと思ったのによ!」 「構わねェ!叩き起こせ!」 「おいおい!」 家主が止めた。だが 「こいつが一緒だと、上臈が寄ってくれるからよ!」 男の1人が言った。 家主が慌てて 「よさねェか!坊ちゃんがおるんだぞ!」 「ああ…何言ってるかわかりゃしねェよ!」 サンジが、日本語を流暢に話すことを知らないらしい。 家主が、渋い顔をした。 「…ジョウロウってのは何の事だ?」 端麗な唇から笑顔と共に洩れた、発音正しい問いに男がギョッとして身をすくめた。 「…う…あ…。」 「…え?…しゃべれるのか…?」 「…うわあ…やべ…。」 サンジは、もう一度ゆっくりと 「ジョウロウってどういう意味だ?おれの言葉、わかりづらいか?」 皮肉たっぷりに言う、何処か凄味さえ含んだ問いに 「い、いえ…!」 「…あ…う…。」 「じょ、上臈ってのは…じょ、女郎の事ですよ…! 格が上の女を、末町じゃあ…そう呼ぶんで!」 「…ふーん…。」 チラ、とサンジはまだ目を覚まさないゾロを見た。 ムカ サンジは、ゾロを蹴るように立ち上がり、ズン!と体を跨ぐと 「帰る。」 勢いをつける様に、サンジは裸足のまま三和土に飛び降り、男たちがのけぞった。 一番後ろにいた小男が、さらに反り返って三和土にひっくり返る。 家主が、一気に酔いを吹っ飛ばされ 「ま、待ってください!坊ちゃん!!おい!ゾロ!!起きろてめェ!!」 「ほっとけ!ひとりで帰れる!!」 「そうはいきません!!」 と、若者の中の1人が 「坊ちゃん!一緒に行きませんか!?」 と、叫ぶように言った。 「娼館だろう?用はねェ!!」 サンジは言った。だが 「いやいやいや!!美味ェ酒を出す店もありますぜ!!」 「せっかくお近づきになれたんだ!!行きましょうや!」 「そんな店にはいきませんから!」 「大丈夫!ちゃんとお屋敷までお送りいたしやすんで!」 「……っ!!」 わずかに、躊躇したサンジの手を、若者たちが両脇から引っ張って外へ連れ出す。 「おい!お前ら!!」 家主が叫んだが 「…大丈夫…すぐ…戻るから!」 「いけませんて!坊ちゃん!!ゾロ!おい、ゾロ!!起きろぉ!!」 「いいんだ!…寝かしとけ!!」 「坊ちゃん!!」 わいわいと、金の髪を取り囲んだ一団が長屋を出て行く。 だが、家主も少々酒が入って気が大きくなっていた。 考えてみれば、たおやかな姿をしてはいるが娘ではないのだ。 「…大丈夫だよな…。」 本当に疲れているのだろう。 ゾロはピクリとも動かない。 冬の早い夕刻。 日暮れが早いこともあり、末町の木戸にはもう灯りが入っていた。 元旦ではあるが、山男たちは休暇なのだ。 こういう時に稼がなくてどうする? 店店は、いつになく賑わいを見せていた。 粗末な門松、注連縄、郎たちが髪に稲わらの飾りをつけているのが、 わずかに正月らしさを醸し出している。 前回訪れた時、感じる事のなかった不安がある。 側にゾロが居ない。 心臓が、早鐘の様に鳴っている。 いきなり、女郎のいる店に上がるのはさすがにどうかと、若者たちは一膳飯と酒を出す店に入った。 入るなり、店内の連中は仰天して思わず腰を浮かし、潮が引く様に遠巻きにサンジを見た。 「おう!赫足の坊ちゃんのお渡りだァ!!」 「オラオラ!席を明けやがれ!!」 「酒と肴だァ!じゃんじゃん持って来―い!!」 元から、酒が入った状態でやってきていた。 テンションが普通ではない。 サンジが躊躇う内に、お雇い外国人の息子が来たとあっという間に騒ぎになり、 周りを取り囲まれ、出口さえ塞がれてしまった。 「お待ちどぉさまぁ!!」 顔を白塗りに、襟足をだらしなく見せた女が酒を運んできた。 「さ、さ、坊ちゃん!おひとつ。」 白粉の匂いが、サンジの鼻をつく。 だが、必死に虚勢を張り、手渡された杯で 「おおおお―――っ!」 一気に呷った。 カッと体が熱くなる。 なんだ? 普通の酒に思えない。強い。 「お強いのねェ!さァ、もう一献!」 「ジャンジャンやってくださいよ!」 ああ、うるさい 濁声が、耳に障る。 「…赫足の倅が?」 元締めホーディの元に、その情報が入ったのはそれから間もなくの事だった。 「…あいつは一緒じゃねェのか?」 その問いに、手下が答える。 「いやせん。若いのが無理矢理連れて来たって感じですね、ありゃぁ…。」 「ジャハハハハ!面白ェ…かまわねェ!どんどん飲ませて酔い潰しちまえ。」 「いいんですかい?お頭?」 ホーディは、にたりと唇を歪め 「付け馬は廣澤倶楽部へやればいいだけのこった… 最後は連れと離して、適当な女の所へ放り込め。放り込んじまえばこっちのもんだ。」 別の手下が驚いて 「そんなことしたら、会社が黙っちゃいねェでしょう?」 「ジャハハハハ!何を言ってる…おれ達は…坊ちゃんがなさりたい事を、お手伝いして差し上げてるだけだぜ? てめェでここへやって来たんだ。することが他にあるのかよ?」 「違ェねェ。」 ゾロが目を覚ました時、目の前に立っていた人物に驚き、またサンジが末町に行ったことを知って仰天した。 家主に、ついには擂粉木棒で叩き起こされたゾロが見たのは、あの、 独特の眼鏡の上げ方をしている黒木だった。 「何でてめェがここにいる!?」 三和土に立ったまま、黒木はゾロの問いに 「なぜ?それはこちらの質問だ。アレクサンデルさんを末町などに行かせて、 自分はここで惰眠を貪るとはどういう料簡だ?」 「末町!?何のことだ!?」 家主がビクビクと身を縮めながら 「す、すまねぇ…!弥助たちが…お前ェが起きねェもんだから… 代わりに坊ちゃんを…と、止めたんだぜ!?」 「………っ!!」 ゾロが、慌てて外へ飛び出す。 背中から黒木が 「…あまりにお帰りが遅いので、お迎えに上がってみれば…このザマかね?」 「――――!!」 「あの方にもしものことがあったら、貴様が責任を取れるのか? 取れるほどのものが、お前にあるのか?」 「うるせぇ!!」 そのまま、ゾロは後ろも見ずに走り出した。 畜生!迂闊だった――!! すっかり寝入っちまった! 暗い、灯りもない道。 長屋を出て、末町まで2キロほど。 続く里道の向うに、色街の明かりがほんのりと見える。 と、 「………っ!?」 狭い道をガタゴトとガソリン車が近づき、あっという間に追い越していった。 追い越して行かれる瞬間、後部座席にこちらを見もしない黒木の横顔が見えた。 「…野郎!!」 雪駄を脱ぎ、冷たい土の道をゾロはひたすら走る。 金の髪に青い目。物珍しいのは分かる。 だからといって、ここまで見世物のように見物人が集まるとは思わなかった。 「……でね、ついうっかりだったとは思うんですがね…落盤で死んじまったそのじいさんが、 ゾロの育ての親が実の親の事を、『ご主君』って呼んだことがあるって言ったんですよ。 それで、ゾロは実は、相当なご大身の子なんじゃねェかって…ま、噂ですよ?ウワサ。」 「それが今じゃ、こんな山奥で穴掘り人足だからよォ? 明治の御一新ってヤツァ、世の中まるっとひっくり返しちまった!」 「そうさ…あたしだって、世が世なら、お旗本の姫君だったんだからねェ。」 「よく言うぜェ!!江戸の下人が食い潰れて来たって有名じゃねェか!」 話の半分もわからない。 酒に痺れた頭では、自分を保つだけで精いっぱいだ。 「おやおや…眠いかい?坊ちゃん?」 「……ゾロ…を…呼んでくれ……。」 サンジの言葉に、女は肩をすくめ、側の男に目くばせした。 「ハイハイ…今やりましたよ。」 「………。」 「もうすぐ来ますからね?疲れたのなら、どうぞ横におなりなさいまし?」 「…大丈夫…ここで…待つ…。」 「来たら起こして差し上げますよぅ…さ、横に。ほんのちょっとですよ。」 「………。」 ぐらり と、体が揺れた。 「あらあら。」 白塗りの女の手に、抱きとめられる。 「…おやまぁ…男のくせに軽い事…。」 「………。」 濡れたように乱れた金の髪を、女がそっと撫でる。 「…やだねェ…この子…なまじっかな女より色気があるよぅ…憎らしいねェ。」 ホーディの手下が、サンジをここに連れてきた若者たちをそれぞれ女郎屋や 飯盛り宿に放り込み、この飯屋に残されたのはサンジだけだった。 「おい。二階へ上げるぞ。」 「あいよ。」 男が、サンジを抱え上げる。 「………。」 「……アンタ、何、見惚れてんのさ!」 ぎゅぅっと。女の爪が男の腕をつねった。 男は慌ててサンジを抱え直し、狭く急な階段を上がった。 飯屋の2階。 衝立の向うに気配がある。 よく、時代劇などで見る女郎屋は、女一人に部屋がひとつあてがわれているように描かれている。 しかし現実は、十人単位で抱えている女郎ひとりひとりに与えるスペースなど限られている。 格が上の女郎なら、ひとり一部屋の閨があるが、格下の、 ましてや飯盛り女にそんな贅沢が出来ようはずはない。 この飯屋は3人の飯盛り女を抱えていた。 3人の女は、一つの部屋で客を取る。 仕切りは粗末な衝立だけだ。 どうやら先客があるらしく、衝立の向うから、男と女の睦み合う声が漏れていた。 だが、2人はいつもの事と構う事無く、敷かれたままの布団の上にサンジを横たえる。 「…さて、どうすんのさ?」 女が、男を見上げながら尋ねた。 男が言う。 「お前が相手をするに決まってんだろ。ホーディのお頭が、せいぜい楽しませてやれと仰ってたぜ。」 「いやだよ、こんな色の抜けた様なヤツ…まともに勃起つのかい?」 「試してみりゃあいいだろ。異人だって男は男だ」 と、衝立の向うの声が止み、暗がりから先客の男が顔を出した。 横たわったサンジを見て仰天する。 「お、おい!赫足の倅じゃねェか!?」 「そうだよ。すっかり酔い潰れちまった。」 衝立に手をかけ、男が立ち上がる。 前を隠そうともせず、目の前の光景を見下ろしながら 「……おい…こいつァ…そそるじゃねェか…。」 相手をしていた女が、不満げな声を上げて男を呼んだが 「白粉も塗ってねェのに、この肌の白さはありえねぇだろ? なァ、おい…下も金なのか?剥いでみろよ。」 「趣味の悪い男だねェ。なんだい、あんた、ソッチもいけんのかい?」 サンジと一緒に上がってきた女が呆れた声で言った。 抱えてきた男が 「…まァ、わからねェでもねェ。確かにこれはそそる。」 たった今、男に組み敷かれていた女が頬を膨らませて着物を肩に羽織る。 女達の目から見ても、そこに横たわったサンジを「綺麗だ」と思う。 わずかに開いた唇、少し皺を寄せた眉、苦しいのか、時折漏らす息はまるで快楽に漏らす吐息のようだ。 「…バレたら…コレだよな?」 衝立の向うの男が、キュッと首を切る真似をして見せる。 「バレりゃあな…。」 「…なんでも、キリシタン伴天連は、衆道は御法度だっていうじゃねェか…。 なら、そんな罰当たりな事になったとなりゃ…黙ってるよなァ…?」 「…悪い人だねェ…ていうか、呆れるよ!この見境なしが!」 「だってよ、お前ェ!こーんな色っぽい姿見て、どうにかならねェ方が野暮だ!」 言うなり、衝立の男の手が、サンジのシャツの襟にかかった。 ごくん と、ひとつ唾を飲み、腹のあたりまでボタンを外した時 「きゃああああああああああああああ!!」 「うわあああっ!!」 階下で、悲鳴が上がった。 あまりの声と、興奮が頂点を目指していた衝立の男は仰天し、思わずのけぞって尻餅をついた。 「なんだい!?」 女が、思わず立ち上がる。 声が響く。 「サンジ―――!!サンジ!!どこだァ―――!!?」 凄まじい、野獣のような咆哮。ゾロだ!! 男はひぃっと呻いて飛び退る。が、慌てて、薄い布団でサンジを隠した。 いくつもの声が交わる。 俥屋のジョニーとヨサクの声もする。必死で止めているような悲鳴。 さらに、赫足の通訳をしているメガネの男の声も聞こえた。 ドカドカと、足音が上がってくる。 階上にいた4人は、逃げ場もなく狼狽える。 ゾロが、この布団の下の男を探して激昂しているのは明白だ。 こんな場面を見られたら、ただでは済まない。彼らは、ゾロという男を十分承知している。 「サンジ―――!!」 「ひぃぃぃぃぃっ!!」 衝立の向うにいた女が悲鳴を上げた。 狭い、天井の低い部屋の暗がりの中、上がってきたゾロの目が血の色を帯びて光っているのがわかる。 「サンジはどこだ!?」 ゾロの後から、黒木も上がってきた。 匂いに耐えられないのか、ハンカチで鼻を押さえている。 布団の奇妙な膨らみを見つけたのは、黒木が先だった。 剥ぎ取ると 「アレクサンデルさん!!」 「―――っ!!」 引き剥がすように、黒木を突き飛ばしたのは無意識だった。 だが、弾き飛ばされた黒木の方はたまったものではない。 「サンジ!!」 抱え起こし、体を揺さぶる。 そして、ボタンが全て開かれたシャツの下から見える素肌に 「――――――!!てめェら……ぁぁぁあああっ!!」 ボロボロの掘立小屋の様な飯屋が、その咆哮で崩れ落ちるかと誰もが思った。 4人は腰を抜かし、這いずり回りながら 「何もしてねェぇえええ!!」 「ひぃぃっ!!」 「く、く、苦しそうだった…から…っ!!外して…そう!介抱して差し上げてたんじゃねェかよ!! なァ!ゾロ!疑うなよ!仲間だろうがおれ達!!なァ!!」 次の瞬間、一糸まとわぬ男の体は障子を突き破り、表の通りへ吹っ飛んで行った。 ぐしゃぁっ!と、嫌な音と共に、男のカエルのようにひしゃげた悲鳴が上がる。 黒木は、その場に昏倒したままのサンジを、ハンカチで鼻を覆ったまま冷たく見下ろした。 どこまで厄介事を増やすのだ。 細められた目が、そう言っているように見える。 とにかくも、連れて帰らな変えれば。 ゾロに命じて、サンジを車へ運ばせようとしたが、それより早く ゾロはもう一人の男を吹っ飛ばしていた。 「許さねェええええ!!」 「ひぃぃぃぃぃ!!」 「ぎゃあああああ!!」 その時 「おいおいおいおい!!その辺で勘弁しちゃくれねェか!?」 「―――っ!!?」 「女は商売道具だ!傷つけられちまっちゃ困るんだよ!」 気づけば、ゾロは飯盛り女の襟を締め上げていた。 安物の紅を塗った口から、だらしなく涎が垂れている。恐怖に、足がガタガタと震えていた。 「………ホーディ……てめェ……。」 狭く、天井の低い部屋。 ホーディの体で、さらに圧迫感を増していた。 暗がりから、サメの様な目がゾロを見て笑う。 「おいおい…まるでおれが、坊ちゃんを攫ってきたみてェな事を言うんじゃねェだろうな?」 「………。」 ゾロの手から、女がずるりと崩れる。 「言っとくが、連れてきたのはてめェらの仲間だ。」 「…わかってる…!」 ゾロは、サンジを抱え起こし 「…サンジ…おい、サンジ!」 まるで芯の抜けた人形のように、サンジはぐったりとしたまま動かない。 「…何を盛った…?」 ゾロが問う。 サンジに酌をした女が震える声で、何かを言いかけたが 「ただの酒だろ?なァ?」 ホーディが言った。 女が、ブンブンと首を縦に振る。 「………。」 こういう町だ。 過酷な労働に耐えきれず、酒に、女に、あらゆる快楽に逃げ込む男は多い。 このホーディという男は、そういう負け犬の為の『逃げ道』という墓穴を、 いくつも掘って待ち構えている。 以前、神経を痺れさせる薬で廃人になった仲間がいた。 深く追及されることはなかったが、それの出所はここであろうと推測される。 ゾロが、黙ってサンジを抱え上げると、黒木が 「車へ。」 「………。」 ここは、黒木に従うほかない。 ゾロは、サンジを黒木が乗ってきたガソリン車の後部座席に横たえた。 小さな車はサンジが横になったことで、黒木の乗る場所が無くなる。そのため 「俥屋。廣澤倶楽部まで頼む。」 「へ、へいっ!!」 ジョニーが慌てて番小屋へ駆け戻り、俥を引いてきた。 「先に行け。」 ガソリン車の運転手に告げると、サンジを載せた車はけたたましい エンジンの音を響かせ、黒煙を上げてガタゴトと走り去った。 俥の上の人となった黒木は、ゾロへ 「…処分は追って沙汰があるだろう。」 「………。」 ゾロに咎はない。 だが、自分の不注意で、サンジを危うい目に遭わせてしまった。 言い返す言葉はない。 ゾロは、まだ松の内ではあったが翌日会社から呼び出され、 製錬技師の見習いの班から外すと告げられた。 外され、有木の坑道に戻れと命じられた。 一鉱夫に戻ったゾロは、尾田の廣澤倶楽部にいる理由を失い、有木の社宅へと移った。 その事を、ようやく意識を取り戻したサンジが知ったのは、ゾロが廣澤倶楽部を出て行った、その日の夕刻の事だった。 BEFORE NEXT (2013/12/12) 華の名前-百億の夜-TOP NOVELS-TOP TOP