　華の名前-百億の夜-（6）　

現代において、『貴族』なるものはおよそ死に絶えた種族と言っていい。国王がいる国でさえ、貴族には何の権威もない。税金も納めれば労働もする。２DKに住んでいる伯爵もいれば、ホームレスになってしまった男爵もいる。一般市民だ。ただの人だ。先祖が貴族であったから、自主的に貴族を名乗っているだけに過ぎない。サンジの姓についた『フォン』の名は、貴族の称号と思われがちだがそうではない。名乗ろうと思えば誰でも名乗れる。それだけ軽いものだ。だが、サンジのローゼンバイン家は、今でもバイエルンの広大な私有地に城を保有している。曾祖父アレクサンデルが継いだ財産を、アレクサンデルとその養女であったサンジの祖母夫婦が守り抜いた。だが、２度の大戦を経て、かつてのように生計が成り立たなくなったのは確かだ。サンジの父が家督を継いだ頃は広大であった私有地も、今はその３分の１に減っていた。それも、サンジの代わりに家を守った叔父がいてこそだ。代々受け継いだものを、自分の代で失うのは誰でも辛い。必死で守り抜いたものなら尚更だ。こんなことになるとは、夢にも思っていなかった。叔父が言い放った言葉に、サンジも思わずうなずいてしまっていた。まさか日本で、あの藤の木にあんな運命が立ち塞がり、自分が必死に駆け回る事になるとは思わなかった。初め意地であったそれはやがて望みになり、ようやく出会えたゾロに、正に運命の一目惚れの恋をした。　「ローは、おれと血の繋がりはねェんだ。」サンジの言葉に、ゾロはようやく顔を上げてサンジを見た。昼間使った鋏をずっと磨き続けて、サンジを見ようともしなかった。時刻は夜２３時、市長夫妻も市役所広報課の職員も、彼らを案じながら帰って行った。ブルックを休ませ、風呂から上がってきたサンジは、ダイニングの床に胡坐をかき、鋏を磨いているゾロの側の椅子に腰かけ、ペットボトルを手にもてあそびながら　「…叔父の奥さんの連れ子なんだ。」　「………。」ふい、と、ゾロの目がサンジから離れた。だが、立ち上がろうとはしない。　「…叔父は…若い頃に音楽家になりたくて家を出たらしい。ローのお袋さんとは、　勤めていた楽団で知り合ったんだと聞いた。　シングルのまま子供を生んで、生まれたばかりのローを抱えて、苦労していたらしい。　叔父貴は…その人と恋に落ちて、一緒になる為に一度はローゼンバインの名を棄てた。」　「………。」　「…父親…おれのじいさんだが…も…親族も…猛反対したそうだ。　だが、おれの親父だけが、叔父貴の味方だった。」パチン、と鋏を合わせた音が響く。　「…叔父貴が家を出て…１０年後…おれの両親がおれとばあさんと借金を残して死んだ…。」　「……それでばあさんと親族に拝み倒されて、家に戻っててめェを育てたって訳か。」ゾロの言葉にサンジは笑い　「…そーゆーこと…。」　「…おれの知った事か。」　「…だよな…だから黙ってた…。」ペットボトルの水をひと口飲み、サンジは言う。　「…自分も借金で苦しかったのに、親父は叔父貴に時々仕送りまでしてたらしい。　元々とても仲の良かった兄弟で…親父は叔父貴を見捨てられなかった… 　叔父貴は叔父貴で…死んだ兄への恩と義理を忘れず…その全てをおれに返してくれた。」　「約束の話は本当なんだろ。」　「………。」しばらくしてから、サンジはうなずいた。　「日本から戻ったら、爵位を継いで…家を継いで…いや…元々…それに抵抗があったわけじゃねェんだ… 　それも自分の生き方だろうって疑問にも思わなかった…約束という言葉を… 　おれはどこか軽く感じていたのかもしれない…。」　「…軽く感じていたのに、ひいじいさんの約束を果たしに来たってのか？」　「………。」サンジは、唇を歪め俯いた。　「……おれには…資格がなかったのかもしれない…。」　「………。」　「…でも…今ならわかるんだ…あの約束がどれだけ重かったか…。」　「………。」　「…ごめんな…ゾロ…。」　「謝る相手が違う。」ゾロは立ち上がり、座っているサンジを見下ろした。　「…あのローってのは…何の血縁もない自分が面倒を全部押し付けられるのを　嫌がって、てめェを迎えに来たって所か？」　「……あいつをそんな風に言わないでくれ。」　「――――！」サンジの目に、わずかに怒りがある。　「…ローは…誰よりもローゼンバインだ…おれなんかよりずっと…。」　「………。」　「………。」　「サンジ。」サンジはゾロを見上げた。耳のピアスが、天井の灯りに反射して光る。　「決めるのはてめェだ。」　「………。」　「おれは言った。てめェを手放すつもりはねェってな。」　「…うん…。」　「だから。」ゾロは、サンジの持っていたペットボトルを取り上げ、ぐいっと煽ると　「てめェが決めろ。」　「………。」サンジが、ゆっくりと立ち上がる。互いに、目線を反らさなかった。　「……じゃあ、お前は…もしおれが…ドイツへ帰ると言ったら…どうするんだ？」サンジの言葉はまるで、ケンカを仕掛けるような口調で吐き出された。ゾロは、サンジを見る目にさらなる威圧を籠めて　「…行くなって言ってほしいのか？」　「………。」　「はっきりきっぱり〝帰る気はねェ。そう言え〟と、言ってほしいのか？」　「………。」　「もう一度言う。おれはてめェと離れる気はねェ。」　「………。」　「だが、てめェは迷ってる。逃げ出してここへきて、追いかけてきたあの男に、　自分はここで、おれと墓場まで付き合うんだと、なんで言わねェ？」　「……それは……。」　「八方美人も大概にしやがれ。」ダン！ペットボトルをテーブルの上に叩きつける様に置き、ゾロは風呂に行った。その姿を見送り　「……てめェに…何がわかる……。」低い声で呟き、サンジはまた椅子に座り込んだ。叔父の妻になった人は優しい人だった。叔父が魅かれたのも当然と思った。だから父も、叔父の恋を応援し、認め、助けていたのだ。純粋で、素直すぎて、その為信じた男にだまされて子供まで身籠り、生んで、必死に働いて、その末に叔父と出会った。それが最大の幸福だと叔母は言った。その叔母を、初めは息子を騙した女だと、好意を持とうとしなかった祖母だったが、共に暮らすうちに心を解かし、最期はその手を握って　「サンジをお願いしますね…。」と、頭を下げた。泣きながら、叔母はその手を握り返し　「お任せください、お義母さま…。」自分の連れ子のローを、まるでサンジの背中を守る騎士のように育て、一歩を退きながらローゼンバインの男にしたのは叔母。日本に行く時、祖母の望みを果たすために行くんだと告げたサンジに、味方してくれたのは叔母だった。藤移植の為に、何年も帰らなかったサンジにしびれを切らし、帰って来いと何度も言ってきた叔父をなだめたのも叔母。その叔母の味方になったのはローなのだ。だが、そのローが、ついに自らやって来た。これは、もう叔母でさえこの状況を憂いている事を示している。誰も、祝福してはくれない恋わかってはいた。それでも切り捨ててここに来たのは、ただひたすらにお前を愛しているから…。八方美人かそうかもしれないおれは誰も悲しませたくないと思ってるそんな事、できはしないのにその時、玄関のチャイムが鳴った。　「…誰だ…こんな時間に…まさかローか？」気だるげに立ち上がり、サンジはドアホンの受話器を取った。モニターに、玄関先の映像が出る。それを見て、サンジは仰天して目を見開いた。受話器を持ったまま、サンジは玄関先へ走る。走りながら　「ゾロ！！ゾロォォォ！！風呂入っちまったか！？出てこい――！！」叫びに、上半身裸のまま、ゾロが風呂場から顔を出した。　「なんだ！？やかましい！！」大音響を立てて玄関を開いた。サンジの後ろから外を見たゾロも　「いぃぃいっ！！？」素っ頓狂な悲鳴を上げた。呆然と、目を見開く２人。時刻は夜２４時近い。こんな時刻にやって来た非常識な訪ね人は、サンジの顔を見上げ、言う。　「こんばんは、サンジくん。」　「………あ………。」　「こんばんは、ゾロくん。」　「………う………。」にっこりと、そばかすの頬が笑う。そして　「家出して来たの。泊めて頂戴。」騒ぎに、ブルックが目を擦りながら現れた。　「…どうしましたぁ…？…何か…ありましたか…？」ゾロとサンジはブルックの顔を見、次に互いを見、そして玄関先の相手の顔を見て、呆然と相手の名を呼んだ。　「ルージュさん…。」旅行用のカートを引いて、玄関先に立っていたのは、海王園社長ロジャーの妻、エースの母、ルージュだった。ゾロが、サンジの部屋を訪れるのはいつも深夜を回った時刻だった。まめな来訪ではない。来ない日が、幾晩も続くこともある。それでも、庭に面したテラスの窓の鍵を開け、毎夜サンジは待っている。来ない日が長ければ長い程、会えた夜の嬉しさは倍になる。短ければ短い程、その望外の喜びはさらに倍になる。恋人ではない。心を許せる唯一無二の『親友』声を潜め、会えない間の互いを語り、読んだ本の話をし、互いに知らない世界の話をする。それだけで、時が過ぎていく。だが、サンジは幸せだった。暗く長い、灰色の冬が終わりかけていた。陽射しがあたたかくなり、雪が解け、庭の白梅がほころぶ。春が来る。サンジが迎える、最後の日本の春だ。この秋、山々が赤や黄色に染まり、また頂が白く雪化粧をする頃父の契約は切れ、サンジはバイエルンへ帰る。それまでの日々を、静かに、穏やかに、このまま暮らせていけたらそれでいい。他には、何も望まない。望まないからどうか、誰にも見つからず、このまま…このまま…。そんなささやかな願いだった。それでも父親は、あまりに穏やかな息子が、どこかでゾロと繋がっているのではと疑いを抱いていた。しかし、例えそうだったとしても、もうすぐ自分の契約が切れるのだ。そっと、この国を離れて行けばいいだけの事。異端の恋であろうと、いつか思い出に変わるものならそれでもいい。時折、本当にごく稀に、ゼフもゾロを見かける事があった。目が合うと、いつもゾロは深く頭を下げる。あの曇りのない目を見れば、あの男が息子に、息子と同じ感情は抱いていないとわかる。春が、来た。　「なァ、ゾロ。お前どう思う？」坑道の仲間がその日の作業後、ごった返した風呂場でゾロに尋ねた。　「…さぁな…確かに…去年の冬は雪が多かった。」頭からぬるい湯をかぶり、ぶるっと振って答え、手脱ぎで顔を拭うと立ち上がり湯船に向かう。ゾロが立った後の洗い場に、別の鉱夫が入って来て座り　「…排水が上手くいってねェんじゃねェかって、７班の奴らも言ってるぜ。」　「だよな…雪解けの時期に水が増えるのはいつもの事だが…今年は…やけに水が出る。仕事にならねェ。」この初春、坑道で流出する水の量がやけに多いと鉱夫達は口々に訴えた。だが、会社はその話を聞いてもろくに調査に入ってはくれない。無理はないのだ。現在掘っている大きな坑道は７本。その７本を中心に、何千人という鉱夫達が何百本という横穴を掘っているのだ。調査の手もまわらない。そして調査に時間を取られ、採掘が停まるのは会社の損害に繋がる。　「５年前の谷田貝の落盤も…春先だったよな…。」　「…だな…気を付けるに越したこたねェ…命あってのモノダネだ。」８年前と５年前、廣澤銅山工業は２度の落盤事故を起こした。８年前の死者は５人だったが、５年前の時は実に２７人の犠牲者を出した。今でも、谷田貝と呼ばれる坑道は、２人の作業員を土中に抱えたまま閉じられている。坑道を、地下水に埋め尽くされたのだ。ガスの噴出、水の流出、落盤。小さな事故は、それこそ毎月のように起きる。それでも彼らがそこで働くのは、彼らに、職業選択の自由などないに等しいからだ。そして、命の危険に晒されるリスクを負っても、地主の元でわずかな畑を耕すより、実入りのいい仕事だからだ。　「あがるのか？ゾロ！なァ、末町行かねェか？蓮見屋に新顔が入ったってよ！」少し年上の鉱夫が、湯船から上がろうと立ち上がったゾロに声をかけ、誘った。だがゾロは、振り返りもしないまま　「行かねェ。帰る。」　「…近頃付き合い悪いじゃねェか。」ゾロは、少し考え　「…ああ…その気にならねェ。じゃぁな。お先。」洗濯したシャツを身につけ、一度自分の部屋へ帰る。洗い物をし、干してから、誰にも気づかれないように社宅を出る。出かけるのを見られ、どこへ行くのかと誰何されないための用心。春になると、やはり心が湧き立つ。日が沈むのが遅くなり、向かう道もまだ明るいのがありがたい。陽射しは暖かく、山の緑も濃くなり始めた。田植えが始まる時期であるが、実はこの地に農業は関係がない。銅山から出る毒素で、田畑の米や作物が育たないのだ。潤う為に、自然を殺すことを黙認している。だがそれに、誰も、何の疑問も抱かなかった。ゼフが現場に来ると、黒木がいつもハンカチで口元を覆うのは、鉱夫の臭いよりも辺りを覆う亜硫酸ガスの煙が耐えがたいからだろう。義父のコーシローも、肺をやられて死んだ。いつか自分も、長くは生きられず、あんな風に死ぬのかもしれない。そんな、未来などどこにも見えない暗い道に、一筋の光が射した。サンジと過ごすのは楽しい。もう、彼が『サンジ』という名前ではないのもわかっている。けれど、サンジと呼ぶと答えてくれるので、もう今さら改めるのも気恥ずかしい。なぜ、あの笑顔が見たいと思うのか。なぜ、あの声が聞きたいと思うのか。なぜ、自分は疲れた体を推して、あんな遠い所まで逢いに行こうとするのか。廣澤倶楽部は、正面玄関から西側を、ぐるりと高い石塀が囲んでいる。しかし東から南に面した一部は、樹木の垣根になっていた。山茶花の木の間に、人１人が抜けられる場所がある。外側のリュウノヒゲの茂みと、内側の石燈籠の陰に隠れて見えないのだ。そこを、ゾロは抜けてくる。そこから庭に向かい、サンルームの柱を登り、２階のサンジの部屋に面したテラスに辿り着く。だがこの日はゾロは柱を登らず、庭へ行った。花が、目に入ったからだ。この庭には、本当にさまざまな樹と花がある。中でもひときわ大きく、優美に、そこにあるのがあの白藤。白藤が、今を盛りと咲き誇っていた。その木の下に　「………。」気配に気づき、振り返る。振り返り笑い　「ゾロ。」名を呼んでゆっくりと、こちらへ歩いてくる咲き誇る花に、溶けそうな金の髪と白い肌鮮やかに輝く青い瞳　「間に合ってよかった。今日が満開だ。」花を見上げ、恍惚とした表情で、花の息吹を思いっきり吸い込む。ああこの花は、こんなに美しい花だったか花というものの美しさを、初めて知ったツキン胸が痛いなぜ、会いたいのかなぜ、声が聞きたいのか　「……ゾロ？どうした？」花ならば触れても許される　「………。」けれどゾロは、不思議そうな顔をして自分を見るサンジに微笑んだ。微笑み、差し伸べられた手を取る。そして　「………。」その行為に涙するなんて思わなかった「あの方」にされた時は、あんなにも嫌悪し、拒んだのに…。　「……ゾ……ロ……。」ああまた泣くのか？泣くな笑え頬を、銅色の手が包む。低い声が　「……泣くな……。」　「………。」　「笑え。」うなずき、微笑んだ顔は、通じた想いへの悦びにあふれていた。その晩、ゾロはサンジと過ごすことをしなかった。手を取り、その手に口づけて、そのまま廣澤倶楽部を出て行った。だが、サンジも止めなかった。この溢れた思いのままその夜を過ごしたら、してはいけない行為をしそうで怖かった。明らかに、終わりがやってくるこの日々。越えてしまったら、その日を迎えた時にきっと狂ってしまう。末町の女に入れあげ、身を滅ぼした男を幾人も知っている。そんな馬鹿話を聞く度に、ゾロはそんな男たちを愚かだと思っていた。だが、今ならわかる。あいつの為なら何もかも、誇りも、矜持も、身体も、命さえ投げ出しても構わないこの想いが『恋』というものだと、ゾロは初めて知った。まろやかな女ではない。純朴な娘でも、妖艶な遊女でもない。自分と同じ男に、こんなに魅かれるとは思いもしなかった。異国に生まれた人間。生まれも育ちも境遇も、何もかもが違う。それでも同じ、赤い血の通った人間。ゾロがこの地で生きてきたからこそ、この出逢いはあった。想いに気付き、気づいた後は、心で名を呼ぶだけで胸が高鳴った。姿を思うだけで満たされた。触れた手の感触を思い出すだけで、体が熱くなった。そうかこれが恋か初めて知ったこんなに幸福なものだとは… だが知らなければよかった知らないままだったならあいつを笑って国へ帰してやれるのに奪いたいだがそれは叶わないあいつはそれを望まないだろう優しい男だ周りを全て不幸にする恋を、その不幸に突き落としても貫ける勇気など、あいつにはない。おれと違い、あいつには失えない大事なものが多くある。何より、この国にあいつを引きとめて、今のおれがあいつを今以上に幸福にできるはずもない。あいつの笑顔が花の様なあの笑みが、枯れていくのを見るのは―――辛い。ゾロは、その日から廣澤倶楽部を訪れなくなった。その理由を、サンジは悟っていた。逢えば、互いの思いに歯止めが効かなくなるのを、ゾロもわかっているからだ。だが、今のサンジの心は、深山の奥の泉のように穏やかだった。ゾロを愛している。ゾロもおれを愛してくれている。それを確かめ合えた。叶わないと思っていた恋が叶った。想いは繋がった。それだけで ……いい。昇華した思いは、人を仏のように穏やかにする。あれほどに、心を揉むように苦しんでいたはずの息子が、この数日ひどく落ち着き、穏やかになった。だが、ゾロの方は違う。昨日、事務所でゼフと出くわしたゾロは、いつもの様に真っ直ぐに、ゼフを見る事をしなかった。目を逸らし、挨拶もろくにせず、足早に出て行った。その変化に、気づかないゼフではなかった。逢っていたのだ自分の知らない所でそしてとうとうゼフは、書斎の椅子に深く腰掛け、まだ美しく咲き誇る庭の藤に目をやった。　「………。」この花を、来年見る事はない。冬が来る前に、ゼフはこの地を離れる。もちろん息子も一緒だ。ゼフは、ある日の夕刻アレクサンデルを書斎に呼び、机の上の聖書に手をかけながら言った。陽は落ちかけ、窓からわずかに灯色の夕焼けが射している。　「誓うのだ。」　「………。」　「…心はどうあれ…決して御心に逆らう真似をしてはいけない。」　「………。」　「心を止める事は出来ない。だが、おれがそれを許すことは決してない。」　「………はい。」　「アレクサンデル。……いや…サンジ…と呼ぼう。」　「………。」　「お前は、あの男と共には生きられぬ。」　「………！」　「…おれは…あの男をドイツへ連れて行こうと望んでいた…お前の友人として…ならばだ。　優秀な男だ。おれの手で一流の技師に育てたかった。だがその望みを、お前のその邪まな想いが断ったのだ。」　「…父さ…！」ゼフの手が、サンジの頬を打った。勢い、サンジの体が壁際まで吹っ飛ぶ。聖書が、ゼフの足元に落ちた。　「……っ……！！」　「いいか！？お前がここにいる限り、あの男に未来はない！！　一生、あの坑道の中でただひたすらに銅を掘り続けるだけの一鉱夫で終わる！！　いや、それすらもかなわないのだぞ！！それが日本という国だ！！まだ生まれたばかりのこの国の現実だ！！　お前よりも、あの男の方がそれをよく理解している！！お前はこの国では生きていけない！！　そしておれが、あの男を国へ伴う事はもう断じてない！！それは、お前が招いたことだ！！サンジ！！」　「…それでもいい…！それでも…おれは…！！」　「夢だけで生きられる人間などおらん！！」　「――――っ！！」父の言う事は何ひとつ間違っていない。そんな事は百も承知だ。言われなくてもわかっている。わかっているから、ゾロはここに来なくなったのだ。それを、辛いと思っていない訳はない。それでも耐えられるのは、まぎれもなく、ゾロが自分と同じ思いでいるとわかったからこそだ…。俯き、声も上げずに涙を落とす息子を見下ろし、杖をつき、腰を落とし、ゼフは言う。　「あの男をもう一度、技師見習いに昇格させるよう会社に掛け合う。もう、ほとぼりも冷めただろう。」　「………。」　「それが、おれができる精一杯だ。あとは、あの男自身の意欲と力…。」　「………。」　「…それで…いいな？」床に手をつき、ポロポロと涙を落としながら、しばらくサンジは沈黙していた。ゼフからは表情が見えないが、サンジは、固く目を閉じ、歯を食いしばり、眉を歪めて堪えていた。　「………いい……。」か細い息子の答えに、ゼフは大きく息をついた。幼い頃よくしたように、息子の髪を撫でる。あんなに、ドイツでは気が短く負けん気が強く、思いやりなど薄かった息子が、あの男ゆえに耐える事を知り、ひたすらに幸福を願う事を覚えた。相手が日本人であろうと、それが異性であったなら、祝福してやりたかったものを…。すでに黄昏は過ぎ、灯りの無い部屋は群青色の闇に包まれていた。ゼフは、息子の涙を拭い、行くように促した。その時　「……何が鳴っている…？」ゼフが呟く様に言った。　「…え…？」涙に濡れた声のままサンジが顔を上げ、ゆらりと立ち上がる。確かに、何か聞こえる。遠くから響くそれは…。　「…サイレンだ！！」サイレンだ。廣澤鉱業が、町に緊急事態を報せるサイレンだ。サンジの声に、ゼフはドアを開け「クロキ！！」と叫んだ。呼ばれ、黒木が小走りにやって来た。サンジは、涙で腫れた瞼を見られまいと、黒木を避けて階下へ駆け下りる。すると、玄関先から、廣澤鉱業の事務員が駆け込んできて　「ゼフ先生！！落盤です！！有木の坑道が…落盤事故を起こしましたあぁ！！」　「――――！！？」頭を何かで殴られたような衝撃だった。落盤有木の坑道　「―――ゾロ！！」駆け出したのは、本能だった。街中に響き渡るけたたましいサイレンの音が、サンジに襲い掛かってくる。 BEFORE 　　 NEXT 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（2013/12/25）華の名前-百億の夜-TOP NOVELS-TOP TOP