BEFORE


 「…一体、何が原因で家出なんて…。」 客間(といっても仏間だが)に、布団を敷きながらサンジがルージュに尋ねた。 ルージュは、仏壇を背に膝を揃えて座りサンジを見て、ふっと表情を曇らせた。  「…ご主人と喧嘩でもしましたか?それともエース?」 と、襖が開き、ゾロが顔をのぞかせた。  「ルージュさん、シャッキーさんにここにいるって報せましたよ。」  「ありがとう。」  「…何が原因です?社長ですか?それともエースですか?」 サンジと同じ事を言うので、思わずサンジは笑ってしまった。 しかし、ルージュはニコリともせず頬を膨らませ  「両方。」 と、答えた。  「両方!?」 ゾロとサンジが同時に叫んだ。 と、いうことは、ロジャーとエースが同じ事でルージュを怒らせたという図式になる。 父親を塵芥のごとく嫌っている息子が、その父親と一緒になって母親と喧嘩をするとは珍しい。 珍しすぎて、思わずハモった。  「…そうよ、両方!」  「…いったい何があったんです?」  「…社長とエースがルージュさんを怒らせるって…。」 するとルージュは、転がしてきたキャリーケースを側に引き寄せ、 取っ手の付け根についた2つのマスコットを見せた。  「これよ!!」  「は?」  「これ?」  「ねェ、ゾロくん!サンジくん!コレ、どっちがカワイイと思う!?」  「はァ!?」 どっちが と、ルージュが差し出した2つのマスコットドール。 ボールチェーンでぶら下げられたそれは、明らかに、何かのキャラクターだとわかる。 が ひとつは、紫色といえば紫色だが、全体的に白茶けていて四角く、 細長い座った眼に切り裂いたような口。申し訳程度についた細長い手足は単なる紐だ。 ひとつは、何か動物のような形をしていて、猫かといわれれば猫だし、 リスだと言われればリスにも見える。 しかし、それが猫ともリスとも言い難いのは、全身が何とも言えない不気味な深緑色をしているせいだ。 体の白い部分は割烹着らしいが、判断がつきかねた。 カワイイ とは お世辞にも 言えない…。  「こっちの緑は『タヌたんたん』Eテレビの『タヌタヌたんたん リズムでポン!』のキャラクターなのね。」 はい? え?教育テレビのキャラクター? てか、これタヌキだったのか!?どう見てもキュウリの妖怪かカッパのお化けだろ!? で、なんでタヌキが緑なんだ!?  「リバイバルでキャラクターグッズが出たの。コレ、エースが大好きだったのよ。」 エース、お前メンクイと広言する割に、どういう美意識のガキだったんだ?  「で、こっちがね?屯田屋のキャラクターで『キンコバくん』」 キンコバくん?  「屯田屋って…確か…海王園の近くの和菓子の老舗…?」 ゾロが言った。  「そう!ゾロくんあそこの塩大福好きよね?あ!買ってくればよかったわ…  わたしったらお土産も持たないで…。」  「いや、どうぞおかまいなく……そうなのか?」  「…ああ、まァ………って、そんなこたどうでもいい。」 ゾロがしびれを切らす。  「それがどうしたんです?」  「だから、キンコバくんとタヌたんたんなのよ!どっちが可愛い?」 再び、ルージュが言った。 だから、カワイイとは お世辞にも 2人は答えに詰まっていたが、ルージュが先に  「わたし、絶対!キンコバくんだと思うの!!」  「えええええええええええええええええええええ!?」 思わずサンジが叫んだ。 条件反射でゾロが激しいツッコミの裏拳を炸裂させる。 しかし無理もない。 座った眼。割けてはいるのにどこかだらしのない口。でれんと下がった手足。 不気味な紫色。粉が吹いたような白い毛玉だらけの全身。 これを可愛いといえるルージュって、もしかしたら慈愛に満ち溢れた女神かもしれない。 この美意識だからこそ、『あの』ロジャーと一緒になったのかとゾロも思った。  「なのに!ロジャーもエースもタヌたんたんの方がまだマシだって言うのよ!!(どどん!!)」 激しく同意。 タヌたんたんの方がまだ、動物とわかる形状をしていて、つぶらな瞳の分可愛げがあると思う。  「酷いでしょう!?キンコバくんはキンツバの精霊なのよ!!  屯田屋だけでなく、日本中のキンツバを美味しくするためにやって来たキンツバ界のヒーローなのよ!  みゆきお姉さんとツネけんけんと毎日踊って歌ってるだけのタヌたんたんとは、立ち位置が違うの!!  けど、エースったら!あんなに大好きだったタヌたんたんを、『気味悪ぃミドリ。  ゾロを思い出してムカつく』ですって!!」 ルージュさん なんでキンコバくんの設定にそこまで詳しいんですか? てか、キンツバの精霊?ヒーローって何? 立ち位置?そういう問題? そして、キンコバという名は明らかに、ケンド・コバヤシ−、ケンコバのパクリと誰でもわかる。 さらに、『ツネけんけん』というのは、タヌたんたんの相棒なのだろう、多分。 (ビジュアルはご想像ください) さらりと、エースのゾロへの悪口が含まれていたが、今はスルーしておく。  「ロジャーもエースもわからんちんなんだから!!ホンット!似た者親子!!」 激しい頭痛に、ゾロもサンジも頭を押さえた。 ボソっ  「ルージュさんってこういう人だったのか…?」 サンジ ボソ  「……まァ…こういう人だ。」 ゾロ ため息をつき、ゾロは立ち上がり  「とにかく、今夜は休んでください。疲れで熱が出たら…おれ達が困ります。」  「大丈夫よ。新幹線の駅からは、ずっとタクシーだったもの。」  「…ずっとタクシーって…それじゃ1時間はかかったでしょう?さ、もう横になって。」  「はい。」 素直にうなずき、ルージュは  「ごめんなさいね。驚かせて。お世話になります。」 三つ指をついて、深々と頭を下げた。 翌朝 案の定、ルージュは熱を出し  「…単なる疲労だ。食うものを食って休んでいれば、熱も下がる。」 手を拭きながら、ルージュを診察したローが日本語で言った。  「…ありがとうございます……みなさん…ごめんなさいね…。」 布団の中から、申し訳なさそうにルージュが言った。 ゾロがため息をつき  「だから言ったじゃないですか…こんな遠くまで来るなんて、無茶です。」  「…他に行くところ、ないんですもの…。」  「ヨホホホホ…お気になさらず。ゆっくり休んでくださいね。」 ブルックが言った。 仏間には仏壇の他に家具はないのだが、ルージュの寝ている布団と、 ゾロとサンジと、ブルックと、ローと、ロビンとウソップと、なぜか向かいのオバチャン。 かなり狭い。 いちばん容量の大きな向かいのオバチャンが  「じゃ、サンジくん!何かあったら呼んで頂戴ね!  アタシ、今からベニマルへ佐藤さんと買い物に行くのよ!じゃぁね!」 別に呼んではいないのだが、ウソップがローを連れてきたのを目ざとく見つけて、一緒に上がり込んできた。 悪い人ではないのだが、この好奇心が時々メイワク。 居間に移動しながら、サンジがローに  「助かった…じいさん関係で医者は何件か知ってるが…どうしていいかわからなくて。」  「元から持ってる病気か?」  「…さぁ…どうなんだ?ゾロ?」 椅子に座りながら、ゾロが仏頂面で答える。  「…おれが海王園に入った時はもう、あんな感じだった。  調子のいい時でも入退院の感覚が1年そこそこだ。」 と、ロビンが最後に居間にやってきて  「呆れたわね。知らなかったの、ゾロ?…サンジ、私もコーヒーをいただける?」  「もちろん…ロビンちゃん…何か聞いてるの?」  「…後天性の再生不良性貧血だそうよ。エースが言っていたわ。」  「やはりAAか…。」 ローが言った。  「AA?」 ウソップが問う。  「Aplastic Anemiaという。だからAAだ。」  「わ、悪い病気か?」  「病気だ。悪いに決まっているだろう。サンジ、おれはコーヒーは嫌いだ。」 サンジはため息をつき  「…お前好き嫌い減らせよ…医者のくせに…。」 その時 ピンコンピンコンピンコーン!! けたたましくインターホンが鳴り響いた。 全員(除くロー)が、その時同じ顔を思い浮かべた。 サンジが、ドアホンを取りモニターを見もせず言った。  「…鍵は開いてる。」 瞬間、玄関ドアが開き、ドアドタドタと凄まじい足音が響き、リビングに通じるドアが開け放たれて  「母ああああさああああああ――――――ん!!!」 汗だく、顔面蒼白、着ている服はグチャグチャ、髪はボウボウ。 息を切らし、そこに立っていたのは、頑固でメンクイでタヌたんたんが好きだったマザコン男エース。  「おふくろは!!?」 叫びながら、サンジに飛びつき両手を握る。 途端に、エースの後頭部に真鍮製のマグカップがヒットした。 投げたのが誰か、見なくてもわかる。  「奥で寝てる!落ち着け、エース!!」  「無事か!?てか、寝てる!?倒れたのか!?」  「熱だ。そんなに高くはない。医者に診てもらったから大丈夫だ!落ち着け!」 サンジの言葉に、エースはへなへなとその場に座り込んだ。  「……はァ…よかった…レイリーに聞いて…探して探して…  …お袋…もう実家もねェからよ…まさか、こことは思わなかった。」 ゾロが、跳ね返ってきて転がったカップを拾いながら  「…何をやってんだよ…てめェら親子はよ…。」  「うるせェよ!幸せな奴は黙ってろ!!」 と、エースがその時、初めて見る顔がある事に気付き  「誰だ?」 一瞬 全員黙り込む。 サンジが  「…紹介する。おれの従兄弟…ローだ。」  「従兄弟!?」 従兄弟、と紹介され、エースはしげしげと無遠慮にローを見る。 ローも、失礼極まりない視線を真っ直ぐ受け止め、目を逸らさない。  「……似てねェなァ。」 あ、言った。 ゾロが、心の中で呟いた。  「……似ていたらどうなんだ?」 ローが言った。  「いやァ…可愛いお姉さんか妹がいたら、紹介してもらおうかと思ってさ!!」  「いねェ。」  「残念。」 サンジが、やり取りを遮るように  「早く行けよ。じいさんが一緒にいるから。」  「うぉっと!そりゃ、危険極まりねェ!!母さ――――ん!!」 バタバタと走り去る音を見送りながら、ローがポツンと言う。  「……なんだ。あいつは?」  「…エースだ。」  「エースよ。」  「エースだよ。」 だから と、問い返すことはしなかった。 ロビンが、コーヒーをゆっくり味わってから  「…あれだけの診察で、再生不良性貧血だってわかるの?」 その問いに、ローが答える。  「…足に脂肪腱ができている。AAの典型的症例だ。…病院にはかかっているんだろ?」 ローはゾロを見て言った。  「…定期的にかかっているはずだ。シャッキーさんが付き添っていくのを何度か見てる。」  「…なら、おれが口出しすることじゃねェな…。」  「どういう意味だ?ロー?」 サンジが尋ねた。  「………。」  「言えよ。そこまで言って、黙り込むな。」 ひとつ息をつき  「なら、さっきのドラ息子を呼んで来い。何度も同じ話をするのはごめんだ。」  「じゃ、じゃあ!おれが!…ついでに…おれ、席外すから…。」 ウソップが立ち上がった。 身内の話になると判断したのだろう。ロビンも立ち上がった。  「終わったら呼んでちょうだい。」  「ありがとう…ロビンちゃん。」 すぐに、エースがやって来た。 深刻な顔はしていない。軽い口調で  「なんだ?話って?…あ〜、しかしよかった!転がり込んだのがここで!」  「………。」  「…ん?」 ローが  「お前の母親は、定期的に病院にかかっているんだろう?」 切り出した。  「あ?ああ、そのはずだ。」  「……はず?」  「……おれ、一緒に暮らしてねェからな……なんで?」  「……ロー…ルージュさんにはご主人がいるが、そのご主人も留守がちで…  会社の副社長夫婦と一緒に生活してる。彼らが身内みてェなものなんだ。」 サンジの言葉に  「…なら、そいつらには話が行っているはずだな。」 エースの表情が変わった。  「……どういうことだよ?おれ…何も聞いてねェぞ?」 腕を組み、ソファに身を沈めて  「…脂肪腱、発熱、不正出血、血尿。目も赤い、紫斑もある。AAの症状はかなり重篤だ。  もう、シクロスポリンの経口投与じゃ追いつかねェ所まで来てる。」  「………え……?」 エースの顔が、一瞬にして青ざめたのがわかった。 青ざめたのはエースばかりではない。 ゾロもサンジも、愕然と目を見開いた。ローの発言は、ルージュの容態がただ事ではないことを示していた。  「…お前、まさか息子のくせに、母親の症状もわからなかったのか?」  「………AA…って…なんだよ……おれは…おふくろは貧血症だって事しか聞いてねェ!!」  「…それを真に受けて今日まで来たのか?おめでたい野郎だ。」  「んだとォ!?」  「よせ!エース!!」 ゾロが抑えた。 ローは全く動じないまま  「お前の母親は再生不良性貧血。それもかなりな重症だ。  おそらく主治医からは骨髄移植を勧められているだろう。  このまま放置したら、この2年ほどの内に確実に死ぬ。」  「――――!!?」  「ロー!!」 サンジが叫んだ。  「そんな…そんな事をいきなり!!」  「真実だ。これがおれの診断だ。……主治医がどう言っているかは知らねェから、  何とも言えねェが。おそらく大差はねェ。」  「………っ!!」 ゾロに押さえつけられながら、エースが激しく歯噛みする。 ルージュのいる部屋の方を気にしながら、やがて  「……放してくれ…ゾロ…。」  「………。」  「…大丈夫だ…手は出さねェ…大きな音を立てたら…おふくろが気付く。」 エースの言葉にローがまた  「…お前の母親は知っているぞ。」  「え!?」  「……問診の答えでは…理解しているようだった。」  「……そんな……。」  「子供はお前だけなのだろう?」  「―――!!」  「……骨髄移植は…ドナーにもリスクが高いからな。」  「………。」  「…ついでにダメ押しをしてやる。もし、これが結婚前からの病気なら、  あの患者がお前を産むのも相当なリスクだったはずだ。運が良かったな。」 ヘナヘナと、エースが床に座り込む。 骨髄移植には、骨髄液の型が適合する必要がある。 型が合うのは親族間の方が可能性は高い。 身内のいないルージュにとって、血の繋がりがあり、その可能性があるのは息子のエースだけなのだ。 しかし、骨髄液採取は、ドナーの方もかなりな肉体的リスクを負う。 ルージュは、エースにそれを強いることをしたくないのだ。  「……馬鹿野郎…馬鹿野郎!!おふくろ!!」 ポロポロと、エースの両眼から涙が溢れた。 奥の部屋からウソップの声が聞こえてくる。 与太話に笑う声も聞こえてくる。  「………。」 笑うルージュの手に、『キンコバくん』ではなく『タヌたんたん』 サイレンの音が、十重に二十重に聞こえてくる。 落盤 鉱山が最も恐れる事故だ。 サンジが有木の坑道入口に到着した時、現場は大混乱だった。 鳴り響くサイレン。 逃げ惑う鉱夫。泣き叫ぶ人々。飛び交う怒号。 坑道の奥から、引きずられるように運び出されてくる、真っ黒な人。 坑道口からは土埃が立ち上り、地面をものすごい勢いで水が吹き出し流れ出ていた。 まだ、落盤が続いているのか、時折凄まじい地鳴りの音が聞こえ、地が震える。  「ゾロはどこにいる!?誰か!ゾロを見ていないか!?」 すれ違う鉱夫を捕まえては、同じ問いを叫ぶ。 だが、誰も答えない。 わが身で皆精一杯なのだ。  「ゾロ!!どこだ!?」 阿鼻叫喚とはこのことだ。 坑道の奥ではもっと、地獄絵図が展開しているに違いない。 自力で、坑道口から逃げ出せたものは幸運だ。 しかし時間が経つにつれ、出てくる鉱夫達の足取りは弱々しくなっていく。 出血の酷いものが増え始めた。 担がれて、ようやく逃げおおせ、新しい空気をようやく吸い込みそのまま倒れ込む者もいる。  「崩れたのはどこだ!?」  「735坑道だ!!側道が全部埋まった!!」  「歩ける奴ァ怪我人を運べ!!」  「火は出たか!?」  「水が止まらねェ!!」  「残りの坑道の連中を、在所原の入り口から出せるか!?」  「やるしかねェ!!」 怒号の中、サンジは呆然となりながらもゾロを求めてさまよった。 いない どこにもいない ゾロ…!ゾロ!! 吹き出す水と泥で、いつの間にかサンジの体も泥まみれになっていた。 鉱夫らと変わらない。 混乱の中、赫足の息子がいる事に誰も気づいていない。  「…助けて…誰か…たす…け…。」 声に、サンジは振り返る。 泥にまみれているのか、それとも血なのか、顔が真っ黒に染まっている。 よく見ると  「!!」 正月に、サンジが訪れた長屋の主だ。  「…ああ…坊ちゃ…ん…。」  「ゾロは!?ゾロは一緒じゃないのか!?」  「…わかりや…せん…ただ…落盤のちょっと前に…水の色と音が変わって…  出ろとあいつが叫んだんで…なんとか…。」  「ゾロは…一緒に逃げ切れたのか!?」 男は首を振り  「わかりやせん!!わかりやせん!!すいません!!すいません!!」 吐く様に言い、気を失った。  「―――っ!!おい!しっかりしろ!!」 太ももから、血が溢れている。 もしかしたら、動脈をやったかもしれない。  「…くっ!!」 男の腰にぶら下がっていた手拭いを引き抜き、太ももを固く縛る。 と、周りに次から次へと怪我人が運ばれ、放り出すように置き去りにされていった。  「…おい!!医療道具はないか!?」 サンジが叫んだ。 腕を掴まれた男が、手を払いながら叫ぶ。  「あァ!?事務所にあるだろ!?」  「………事務所!?」  「――!あ、あんた!赫足の倅か!?」 男は瞬間驚いた。その男にサンジは叫ぶ。  「医療道具を持って来い!」  「あ…うわ…な、なんで!?」 襟首を締め上げ、サンジは  「おれは医学生…医者だ!!」 ゾロを案じながら、無限に思える怪我人たちの選別をサンジは始めた。 今でいう、『トリアージ』だ。 本国で、サンジは医療の大学に通っていた。 医師になるつもりだった。 だが、王に見初められたことでその夢を断った。断たざるを得なかった。 それでも 未熟な日本の医師に比べれば、まだサンジの方が技術も知識も高い。 大勢の苦しむ怪我人を目の当たりにした一瞬、ゾロの事は脳裏から消えた。 救わねば その思いが爆発した。  「いいか!?おれが腕に三角を書いた患者はすぐに病院へ運べ!!丸印の患者はここで治療する!」 サンジの指示に、若い男が  「ば、バツの奴はどうしたらいいんで!?」  「…死んでいるか……助かる見込みがないかだ…手をつけなくて……いい……。」  「………わ、わかりました!」  「………。」 非情なのはわかっている。 それでも、死ぬとわかっている人間の治療をする事は出来ない。 頼むゾロ 生きていてくれ お前の腕に、バツ印をつけさせないでくれ…!! 坑道で働く人間の数は1000人近い。 昼間作業と夜間作業の交代時刻であったため、坑道内にいた鉱夫の数はいつにもまして多かったようだ。 ゼフも黒木を伴い有木までやって来たが、現場があまりに混乱しているため坑道近くまで立ちいる事が出来ない。  「アレクサンデルさんらしき人物が、現場近くで怪我人の治療に当たっているようです。」 深夜近くなってから、黒木がようやくサンジの居場所を突き止めた。  「戻られるようお伝えしましたが、聞き入れてはくださらないそうで。」  「…バカ息子が…。」 ゾロに、会ったのだろうか。 不安が過ぎる。 いっそ このまま逝ってくれれば… 悪魔のような思考が脳裏をよぎったのは、ゼフばかりではなかった。 ゼフの隣に立つ眼鏡の男も、おそらく同じことを考えている。 サンジは、ポケットの中の懐中時計を見た。 金の針が、すでに時刻が夜明け近いことを示している。 ゾロ どこにいる? 怪我人はどんどん運ばれてくる。 だが、サンジが到着して間もなく、会社のお抱え医師3人も到着した。 死体も、増えていく。 無造作に並べられたその間を、サンジはフラフラと歩いていく。 そこに、ゾロの顔がない事を祈りながら、ひとつひとつ確かめていく。 ゾロ ゾロ ゾロ 頼む 生きていてくれ…!  「うおおおお〜い!!在所原の方に回ってくれェ!!」 声が、聞こえた。 無意識に、そちらへ向きを変えた時  「サンジ――!!」  「――――っ!!」 これほど 何かに感謝をしたいと思ったことはなかった。  「…………ああ…ああ!!」 すがり、腕を掴み、弾けそうな声を必死で抑える。  「―――ああ!ゾロ!!」 泥だらけの全身。 髪から滴る泥水。 かすかに震える手。 そして 顔の左半分から流れ落ちる、真っ赤な血  「…目…目をやったのか!?…ああ…!!」 顔を探り、手を血塗れにしながら、サンジは涙を溢れさせる。  「…安いもんだ…目ん玉の一個ぐれぇ…。」  「………っ!!」  「…来てくれたのか…ありがとよ…。」 抱きしめたかった。 手を差し伸べた。 だが  「サンジ。」 その名を呼んだのはゾロではなく―――。  「………。」  「…治療を許す。…治療だけだ。」 ゼフの言葉に、サンジは苦しげにうなずいた。 廣澤銅山鉱業、有木坑道落盤。 これは尾田村の、いや後のS市の至るまでの歴史の中に、最大最悪の事故として残る事になる。 死者58名、行方不明16名、重傷142名。 その後の事故関連死を加えると、死者の数は100名近くに及ぶ。 日本の鉱山の歴史から見ても、最悪の事故だった。 江戸時代とは違う。 働く人間は罪人ではなく民間人である。 雇用する側にも、責任が生じる。 しかしそれでも、平成の現代のような被害者の権利など、ほぼ無いに等しい時代だ。 落盤事故が起ころうとも、富国強兵の名のもとに、生産を奨励する国が会社側の最大の味方だった。 有木の事故からわずか5日で、他の坑道の採掘は再開された。 製錬に至っては、1日も休む事はなかった。 この山に、坑道はまだいくつもある。 有木坑道は最大の鉱脈であることから、会社はこの坑道を見捨てる事をしなかった。 だが、それは出水の止まった後の話で、有木坑道で働いていた多くの者で、無傷の者 ケガの軽かった者は、当座別の坑道に入るよう指示されたり、復旧作業を命じられた りと、休む間もなく働き始めた。 だが、重篤な者に至っては、非情の宣告がなされた。 解雇である。 会社側は、坑道閉鎖に伴う一時解雇であると言ったが、これは事実上の永久解雇だった。 負ったケガが完全に治癒するのであれば、治癒後再雇用もありうる。 しかし、それまで全くの無一文だ。 手足を失った者や、背骨や腰をやられた者もいる。 そうなれば、二度とかつての様に働くことはできない。 そう判断されたものは、わずかな見舞金で退職を余儀なくされた。 その中に、ゾロも含まれていた。 失ったのは左の目だけであったが、事故直後は土埃や泥水で右目の視力も落ちていた。 その治療中に、解雇の通達は成された。 有木の社宅にいる事すらできなくなったゾロがどこへ行ったのか、サンジが知ることは叶わなかった。 ゾロの行方も分からないまま、季節は夏を迎えていた。 廣澤倶楽部恒例の、夏の祭りの日がやって来た。 去年も、祭りを父と見た。 と、いっても、廣澤男爵が尾田の廣澤倶楽部に東京から避暑を兼ねて客を大勢招き、 藤の庭で夕涼みの会を行った際に、村人や鉱夫達に行わせた祭りであったが。 あれほどの大事故を起こしたにもかかわらず。 神輿とお囃子、そして大がかりな花火。 招かれた客は、華族や資産階級の者が殆どだった。 華やかな着物やドレスの女たちが、サンジの周りに幾人も集まってきた。 そつなく、貴婦人の相手をするのは慣れている。 だが、彼女らのいずれも上流階級の生まれ育ちでありながら、学も品性も薄かった。 いきなりにゾロという男を知ったせいか、出逢う日本人はどれも浅薄で、 魅力を感じる事は出来なかった。 その夏祭りを終えたら、いよいよ秋がやってくる。 この国を、離れる時が来る。 まさか、このまま離れるのか? あの時、血塗れのゾロを治療して、その後黒木に無理矢理ここへ連れ戻された。  ゾロ、お前どこにいるんだ?  なぜ、会いに来てくれない?  もしかして、本当に傷の具合が悪かったのか?  動けないのか?  ゾロ…なァ…どこにいるんだよ…。 毎夜、窓を開けて待っている。 国から取り寄せた新しいブランデーは、まだ封も切っていない。 朝から、ずっと庭が騒がしい。 藤棚の下に椅子を置き、何日も前から池の掃除を念入りに行っていた。 植え込みや木は綺麗に刈り込まれ、清々しい色の花々が運び込まれ、到る所に飾られていく。 尾田の廣澤倶楽部はローゼンバイン親子の住まいであるから、招かれた客は別の館に宿泊していた。 だがここの離れにも、2家族が滞在している。 いくつかの倶楽部の中で、この場所の庭が一番広くて美しい。 昨日は、庭に蛍を放し、その儚い輝きを堪能した。 今夜は神輿が運び込まれ、音曲で賑やかになる。 廣澤男爵の接待の祭りは、週末まで続くのだ。  「坊ちゃん、そろそろお着替えなさってください。」 ドアの外から、女中の声がした。  「…わかった…。」 答えたが、サンジはしばらくベッドから起き上がらなかった。 面倒だが、父は廣澤に雇われた身だ。夜会に参加してくれと請われたら、断ることなど事実上できない。 ようやく、観念して立ち上がろうと半身を起こした時 カサ 小さな音がした。  「………。」 気配は、ドアの向うからした。 立ち上がり、歩み寄り、そっとドアを開けると  「………。」 ドアの外に、手拭いが落ちていた。 落ちていた、という表現は正しくないかもしれない。 それは、サンジの目につく場所に、きちんと畳まれて置かれてあった。 藍染の、どこにでもある様な手拭いを、サンジはそっと拾い上げる。 折られたそれを、ひとつ開くと  「………。」  『すぇまち はすみや』 と、染め抜かれてある。  「………。」 末町 蓮見屋  「………。」 辺りを見回す。 誰もいない。 だが、これは置かれてあった。 明らかに、サンジに向けて置かれたものだ。  「…末町…。」 サンジの目が見開かれた。 バカバカしい接待ではあるが、ゼフは、この祭りを嫌いではない。 蛍を放ち、その淡い光を楽しむ風情も、一転賑やかで煌びやかな神輿の練り歩きも、どちらも彼は好きだ。 高い笛の音、太鼓の音。 招待客が童心に還って楽しめる様にと、金魚すくいや飴売りの屋台までしつらえてある。 普段静かな藤の庭は、いつになく明るく賑やかだ。 そこへ  「先生…坊っちゃんが…どこにもおられません…。」 おくまが、テラスの椅子に腰かけたゼフに耳打ちした。 鷹丸宮家の伯爵夫人が、サンジにドイツの話を聞きたいとしつこく請われ、探しているのだが見つからない。 しかし、黒木が側にいないため、ゼフはおくまの言葉がわからず  「クロキ ハ?」 と、尋ねた。  「黒木さんも見つかりません。坊ちゃん どこにも いません。」 短い単語を繋げ、言うと、ゼフは理解したらしくうなずいた。 どこに隠れたのだ…。 その時は、そう思っていた。 あれから、ゾロの行方は分からないままで、わからないのだから逢いに行く事も出来ない。 息子の、毎日の暗い顔の原因がそれであることを理解しているから、 まさか、サンジがゾロに、無断で密かに逢いに行く事もないと考えていた。 だが、サンジはこの時すでに、夜になって賑やかになるのを待ち、ゾロがここに 忍んでくるときに使っていた山茶花の垣根の破れ目を抜け、町へ飛び出していた。 今日は昼のように明るい廣澤倶楽部を出て、町への道をたった一人で走る。 手に、小さなカンテラ。 心もとない小さな光だけを頼りに、サンジは息を切らしながら末町へ向かった。 体を突き動かすのは理屈ではない。 何の根拠もなく、誰が何の為に置いたのかもわからない手拭いを握りしめ、サンジはただひたすらに走った。 決して近い場所ではない。 息を切らしながら、汗だくになりながら、ようやく、末町の灯りが見えてきた。  「………。」 サンジは、正面の木戸ではなく、西の番小屋側の出入り口に向かった。 末町は、いずれの吉原の例に漏れず、商売時に正面の木戸が開かれる他は、固く扉を閉ざしている。 内側からなら男は自由に出られるが、女は当然そうではない。 そして、出る事は出られるが、入るのは正面の大門と決まっている。 そんな事をサンジが知るはずもなく、閉じられた西の木戸口から  「おい!誰かいないか!!俥屋!!どっちもいねェのか!?」 2度3度、サンジが声をかけると  「……なんだよなんだよ!入るなら正面の大門に回れ…って!!坊ちゃん!!?」 顔を出したのは、ヨサクの方だった。  「どうしたんです!?何でこんな所へ!?まさか、おひとりですか!?」 慌てて、木戸を開けサンジを中へ入れると、そのまま番小屋に押し込んだ。 サンジは、目の前にいたジョニーに詰め寄り  「蓮見屋ってのはどこだ!?」  「は!蓮見屋!?蓮見屋ですか!?…ぼ、坊ちゃん!蓮見屋に何の御用で!?」  「御託はいい!!どこにあるんだ!?」  「お、お教えしやすが…!!蓮見屋は女郎屋ですよ!?いいんですか!?」 その答えに、サンジは一瞬惑ったが  「…ゾロを…ゾロを知らないか…?」  「―――!!?」 急激に、サンジの表情が悲しみの色に染まる。  「…ゾロは…そこにいるのか!?」  「な、なんで…そ、そう思うんで…?」  「………。」 なぜ なぜだろう… 沈黙があった。 サンジが、揺れる様に座り込む。  「坊ちゃん…帰りましょう…お送りしやすんで…く…俥代は結構ですから!」  「………お前らも…ゾロの居場所を知らねェのか……?」  「…あ、アニキは…。」  「か、会社を…クビになりやしたからね…も、もう…ここにいる理由がねェですよ…!」  「………。」 見上げるサンジの目が潤んでいる。 バヴァリアの狂王をひと目で虜にした美麗にじっと見つめられ、2人は思わず後ずさった。  「…あ…アニキは…。」  「…蓮見屋はどこだ…。」  「坊ちゃん!いけません!!」  「どこだ!?」 その一喝は、ゾロのそれにも似ていた。 端麗な顔から出たその叫びに、2人は反射的に  「勘弁してくださいぃぃぃぃぃぃっ!!」 地面に、拝むように伏して詫びた。  「―――――っ!!」 小屋を出、サンジは末町の大道を歩いていく。 赫足の息子が、たったひとりで歩いている。 これはさすがに目立つ。 誰もがそうと気づくと、道を空け、遠巻きに見送る。 怪訝な顔をするものもあれば、明らかな嘲笑を浮かべて揶揄するものもいる。  「坊ちゃん!いい女を紹介してさしあげましょうか!?」  「まぁた、こんな薄汚れた場所へおひとりで!」  「あらぁ!坊ちゃん!今度こそ、うちへ寄っておいきなさいなァ!」  「おうおう…見物だったら余所へ行きな!!」   サンジの耳に、どの声も届いていない。 求めるのはただひとつ ゾロの声だ。 ゾロの姿だ。 自分が、狂ったように歩いているとわかっている。 苦しい。 辛い。 そして怖い。 それでも しかし、以前の騒ぎでサンジにちょっかいを出したものがどうなったかを、彼らはよく覚えている。 だから、言葉でからかっても誰もサンジに手を出してこない。 近づこうともしない。 ゾロはいる。 この町のどこかにいるのだ。 だから、誰もサンジに近づいてこない。 立ち止まり、近くで自分を見ている男にサンジは問う。 大柄な男。  「…蓮見屋はどこだ…?」  「…その辻を曲がった2軒目だ。」 答えたのはホーディだった。 騒ぎを聞きつけ、自らサンジを確かめに来た。 行こうとするサンジの背中を、意味ありげに笑って見送る。 濁った赤い目。 その辻。 弾かれるように、サンジがその角を曲がった時  「―――――。」 左目を失ってからの顔を、初めて見る。 顔を縦に走る傷。 ゆっくりと近づいてきたゾロは、サンジの前まで来ると、おもむろにその頬を叩いた。  「………っ。」  「…………。」 サンジの瞳から涙が溢れる。 痛みにではない。悦びに―――。 ゾロの手がサンジの手を掴む。 掴むや、ゾロはサンジを引きずるように歩き出した。  「…ゾロ…。」  「………。」  「…ゾロ…ゾロ…ゾロ…。」  「………。」  「…ゾロ…ゾ…ロ…!」 歩いて 歩いて  ゾロは東側の木戸までやってきた。 東の木戸の方面には、町や里に通じる道がないため人気がない。 ゾロはサンジの手を握ったまま、ようやくそこで立ち止まって振り返り  「何をやってるんだ!馬鹿が!!」  「………。」  「てめェ、ここであぶねェ目に遭ったのを忘れたか!?」  「…ゾロ…。」  「ここは、てめェがノコノコ歩いていいとこじゃねェ!!」  「…ゾロ…ゾロ…!」  「 あれで懲りたんじゃねェのか!?」  「ゾロ…!」  「おれを…やきもきさせるな!!」  「ゾロ!!」 サンジの腕が、ゾロの首にしがみつく。  「―――っ!!」 浮いた手を、ゾロはその背中に添える事が出来ない。  「…逢いたかった!!」 サンジの叫びは、血を吐くようで  「逢いたかった!!逢いたかったんだ!!」  「………。」  「…よかった…会えた…よか…っ…た…。」  「………。」  「……嬉しい……。」 大きく長い嘆息が、サンジの耳元に届く。 そっ と 大きく熱い手が、ようやくサンジの背中に回る。  「………会いたかった…ゾロ……。」  「………。」  「………。」  「……おれもだ……。」  「………。」  「…会いたかった…サンジ…。」 その言葉 それだけでうれしい サンジの微笑んだ顔は、昨晩の蛍のように儚げだった。 BEFORE    NEXT                     (2013/12/25) 華の名前-百億の夜-TOP NOVELS-TOP TOP