BEFORE


 「……うん…うん…うん……。」 ずっと、電話の相手にエースは、その言葉しか繰り返していない。 相手はレイリーだ。 長い沈黙に入ると、エースは髪を掻きむしりながら歯噛みする。  「………え……嘘だ………。」 目を見開いたエースを、ゾロとサンジはピクリと震える。 ローはソファに腰かけ、サンジが淹れた紅茶を飲んでいた。  「……親父は…知ってる…?」  「!!」  「……知ってて…知ってて、おふくろをほったらかしなのかよ!!?」 その叫びに、サンジは思わずエースの腕を掴んだ。 ルージュに聞かれる。 黙ったまま、サンジは首を振った。 エースも我に返り、「大丈夫だ」と、うなずいた。 さすがにローも、今の叫びには顔を上げた。  「……わかった…一度帰る……。」 通話を終え、エースが顔を上げ何かを言おうとした時、居間に通じるドアが開いた。  「!!」  「………おふくろ!!」 ロビンに支えられて、ルージュが立っていた。 いつものような、愛らしささえ残る笑顔。  「ダメだ!おふくろ!寝てろ!!」  「お父さんを悪く言うのは止めなさい、エース。何も知らないクセに。」  「!!」 ロビンが困ったように首を振った。  「あなたは…お父さんとお母さんがどんなふうに知り合って、結婚して、あなたが生まれたのか何も知らないのよ?  そんなあなたに、私たちの事をとやかく言われたくないわ。」  「………。」 ローが、ソファを立った。 そこに、ルージュを座らせろという無言の意思だと察して、サンジはそこへルージュを招いた。  「ありがとうございます。先生。」  「………。」 出て行こうとするローを、後からやって来たブルックがそのまま手で押し戻す。 ルージュが微笑み  「ねェ、みなさん?私のノロケ話を聞いてくださる?」  「え?」 何をイキナリ。 瞬間、全員ポカンとなったが、さすがは年の功ブルックが  「ええ!ゼヒ!!」 と、ルージュの正面に腰を下ろした。 ルージュは口の前で手を合わせ「ウフ」と、小さく笑い  「…わたしは、シャッキーと中学からの友達で、そのシャッキーがレイリーと  お付き合いを始めたことで、レイリーの友達のロジャーと知り合ったのね。」  「………。」  「初め、わたしはロジャーが怖くて怖くて…。」 うん。なんとなくわかる。  「…別にお付き合いしたいって思ったわけでもなかったし…ロジャーの方も、  そういう気持ちはなかったの。でも…。」 少し、ルージュは間をおいて  「その頃、わたし、この病気になったの。」  「!!」 皆、ハッと息を呑んだ。 表情を変えなかったのはローだけだ。  「…30歳まで、生きられませんって言われたわ。」  「……母さん……!!」  「それでね。」 エースが何かを言おうとするのを遮るように、ルージュは言葉を続ける。  「悔しかった。100年生きる人もいるのに、どうしてわたしは半分も生きられないの?  何もしないまま終わるの?って。」  「…ルージュさん…。」 ルージュは、隣にエースを招いた。 腰を下ろしたエースの手を、ルージュは握り  「…子供を…産みたいって思った…。」  「………。」  「だから、探したの。」  「え?」 ルージュはにっこりと笑い  「こんなわたしと結婚して、家事一切できなくても文句を言わなくて、  寝込んでも入院しても文句を言わないで、命懸けで子供を産ませてもらって、  その子が小さい時分にわたしが死んでも、残った子供を育ててくれる男の人を探すことにしたの!」  「!!!???」 全員。 呆れると同時に驚いた。 一見、たおやかで儚げな、純粋な少女のようなこの女性が、なんと大胆な事を考えたのか。 しかし 考え様ではなんとも身勝手な… 隣で、唖然と口を開けたエースが  「…ま、まさか…それが…?」 ルージュは頬さえ染めてにっこりと  「そう、ロジャー。」 ローは、そこにいる全員が同じ表情であんぐりと口を開き切っているのを眺め、息をついた。  「……すっげー……。」 ウソップがつぶやいた。  「だから、結婚して子供を産ませてください!って、頼んだのはわたしの方なのよ。」  「…あ…う…。」  「他に、わたしはロジャーに何も望まないって約束したの。ロジャーがやりたい事をわたしは決して止めない。  やりたいことは全部、遠慮なくやってくださいって。」  「………。」  「それでも…。」 急に、しおれるようにルージュは肩を落とした。  「…あの人は…優しいから…。」  「………。」  「エースを産むときも…ずっとわたしに付き添ってくれたわ。」  「………。」  「わたしとエースを、大事にしてくれた。」  「………。」  「ごめんね、エース。」  「え?」 いきなり謝る母に、エースは驚く。  「…あなたが、お父さんに、わたしやあなたが大事にされていないと思ってしまったのはわたしのせいね。」  「…っ!違…!」 ルージュは、穏やかに  「…19でロジャーと結婚して、20歳でエースを産んで…エースがそれなりに大きくなって、  ある程度理解できる頃にはわたしは死ぬはずだったの。  それがロジャーのおかげでこの年齢まで生きたわ。もう十分。」  「そんな!!」 サンジが叫んだ。 しかしルージュは笑って、朗らかに言う。  「このままじゃ、わたし、エースのお嫁さんが見たいとか、  孫が見たいとか言い出しちゃいそうだもの。だからもういいの。」  「いいワケねェ―――!!!」 ロビンとロー以外の男達が全員叫んだ。 サンジが身を乗り出し  「言っていいんです!!エースの子供が見たいって!抱きたいって!言っていいんですよ!!」  「ダメよ…言えないわ…。」 それでも、ルージュは笑う。 こんな風に笑えるまで、この女性はどれだけ泣いたのだろう。誰もいない場所で。  「もう…ロジャーを自由にしてあげなくちゃ…あれでもわたしのせいで、  ずいぶん我慢をしたのよ?エース、あなたが知らないだけ。」  「母さん!!」  「ごめんね、勝手なお母さんで。…でも、わたしは自分が生き延びるために、  あなたを危険な目に遭わせたくないの。わかって頂戴。」  「わかりたくねェよ!!」 思わず、エースは母の体を抱きしめた。  「…エース…恥ずかしいわ…もう大きいクセに…。」  「………!!」  「…こんなに大きくなったのね…。」 ルージュの瞳から、涙が一筋流れて落ちた。 と、ウソップが耐えきれず、ドアの柱に背中を預けて立っているローに詰め寄った。  「おい!お前ェ医者だろ!?何か言う事はねェのかよ!?」  「ねェな。」  「何だとォ!?」 ローはルージュを見  「…生きようという意思のない患者には、何を言おうと無駄だ。」  「………。」  「おれは、自分で戦う意思のねェ患者は、救ってやる価値があると思ってねェ。」  「おいィ!!」 掴みかかろうとするウソップを遮るように、割って入ったのはゾロだ。 そして  「…本気ですか?ルージュさん?」  「…ええ…。」  「…社長が望んでも、エースが望んでも?」  「…ええ…。」  「それで、いいんですか?」  「ええ…いいの。」  「………。」  「思ったよりも…生きられたの…だから…もう、いいのよ…。」 沈黙が流れた。 が、ルージュの目から涙がぽろぽろ零れはじめる。  「…自分で決めたの…!!何年もそう決めてた!!だから…もう、迷わせないで!!」  「おふくろ!!」  「ルージュさん!!」 エースとサンジが同時に叫んだ。 そしてエースが  「誰が!!親に早死にしてほしいなんて思うかよ!!そんなガキがどこにいるってんだ!!?」  「……っ!!」  「許さねェぞ!!そんなの勝手に決めて!勝手におれを産んで!勝手に死ぬのかよ!?許さねェ!!」 エースの言葉にうなずき、サンジも叫ぶ。  「死なせませんよ、ルージュさん。知ったからには、おれ達がルージュさんを死なせません!」 ゾロも  「…ったく、社長も頑固だが、女房はさらに輪をかけた頑固だな。」  「だから!幸せな奴ァ黙ってろ!!」 エース、八つ当たり。 ルージュは口元を手で覆い、必死に嗚咽を殺しながら  「…だから…だから言いたくなかったの…エース…あなた…絶対こうなるって…わかってたもの…。」 サンジがため息と共に  「…なるに決まってるでしょう…あなたの息子ですよ。」  「…みんな…ひどいわ…何年もずっと…決意して来たのに…こんなにあっさり…。」  「あたりまえでしょう…みんな…あなたが大好きなのですもの…。」  「そうですよ…なんと優しい息子さんでしょう…これからももっともっと、自慢しなければ。」 ロビンが優しく告げ、ブルックが言った。 そしてブルックは、言葉を続ける。  「…ルージュさん…本当は…生きたいでしょう?だから…ノロケ話を聞かせてくださったのでしょう?」  「………。」  「それでいいんです。それが…あたりまえです。」 ルージュは、エースの腕にすがるように崩れた。  「…母さん…横になって。」  「…うん…。」 サンジが、ローに  「…まずは…骨髄提供者探しか?」  「…そうなるな…とにかく、主治医に相談することだ。」 すぐに海王園へ帰ろうという話になったが、その夜、ルージュは尋常でない高熱を発し、市内の総合病院に搬送された。 翌朝にはレイリーとシャッキーが駆けつけたが  「親父は!?」 エースの問いにレイリーが  「…シンガポールのホテルの作庭の最中だ。連絡はした。」  「……ったく!!」 レイリーは、病室の廊下にゾロとサンジを見つけると  「…世話になった…迷惑をかけたな。」  「迷惑だなんて思ってません。」 サンジの言葉に、シャッキーが笑う。  「…話の通りの優しいコね。」  「…シャッキーさんですね…こんな時ですが…初めまして。」 初対面の2人は、握手を交わす。 エースがシャッキーに  「……なァ…おふくろが言ったんだが…親父とおふくろの馴れ初めの話は…本当なのか?」  「………。」 しばらく考え、シャッキーは答える。  「…ええ、本当よ。」  「………!!」 エースは、複雑な顔で歯噛みした。 もし、それが真実なら…。  「エース。ロジャーがお前を愛していないという事はないぞ。決して。」 心を見透かしたように、レイリーが言った。 シャッキーも  「…好きでもない人と結婚するような女だと思う?あなたの母親が。」  「………。」  「わずかな情もないのに結婚するような、そんな男だと思う?あなたの父親が。」  「………。」  「…ロジャーは、お前の母親が大好きだよ。」 レイリーが言った。  「好きだから…ルージュを自由にさせる為に、自分は側にいなかったのだよ。」  「…そんなのあるかよ!!親父がいないことで、おふくろがどれだけ大変だったか!!」  「エース。」 レイリーの声はよく通り、心に染み入るようだ。  「人を愛するという事は、どういう事だと思う?」  「え…。」 思わず、ゾロとサンジは互いを見た。  「共に暮らし、片時も離れない事かね?――違う。」  「………。」  「…互いを案じ、他の何も見ず感じず、ただ見つめ合う事かね?―――違う。」  「………。」  「愛するという事は、互いに見つめ合う事ではなく、共に同じ未来という方向を見つめる事だ。」  「――――!!」 レイリーの言葉に、エースだけではない、ゾロも、サンジも、皆目を見開いた。  「ロジャーとルージュは、そんな愛で結ばれている。」  「…レイリー…。」  「だから、ロジャーは勝手気ままに仕事の為の放浪を続けたし、ルージュはじっと、  夫の帰りを待つ女でいられた。見つめる未来の場所が、同じだったからだ。」 エースは、歯を食いしばるように俯き  「…けど…おふくろの寿命は長くねェ…未来なんてないのに!!」  「未来がないとだれが決めた?」  「………!」  「…まァ…果たして、奴の思う未来がどうなのかは…実の所おれにもわからんがな。」 シャッキーが言う。  「エース。」  「………。」  「…ロジャーはルージュが大好きだし、ルージュもロジャーが大好きよ。これだけは本当。」  「………。」  「じゃなきゃ…あなたが生まれてくるワケ、ないでしょ?」 黙り込んだエースの背中を、ゾロが叩いた。 即座に拳でゾロの顔面を殴ろうとし、サンジに止められる。 愛するという事は、互いに見つめ合う事ではなく、同じ方向を見つめる事。 触れた互いの手を、ゾロとサンジはしっかりと握る。 ゾロは、サンジを蓮見屋の自分の寝倉に案内した。 狭い天井裏。 小さな窓から、店を覗く客の姿が下に見える。 侘しい灯り以外、何もない部屋。 天井が低いせいか、蒸し暑い。  「…落ち着いたか?」 白湯を飲ませ、ゾロは尋ねた。サンジはうなずき  「…ゾロ…どうして…ここに…末町にいるんだ…?」 わずかな嫌悪と嫉妬を感じながら、サンジは尋ねた。  「…行く場所が…なかった。」  「……っ。」  「ホーディが…ここの用心棒の口があるってんでな…。」  「…普段…そいつの事をよく思っていないんだろ?」  「…それでもここの元締めだ。銅山以外の仕事と言ったら、ここしかねェ。  初めジョニーとヨサクんとこにいたんだが、10日前にここに移った。」  「………。」 ゾロは、小さく笑い  「…お前が…ここを離れるまでは、おれも離れねェと決めた。」  「……ゾロ……。」  「お前が…ここからいなくなったら…おれも…ここを出て他の職を探す…一時の繋ぎだ…。」  「……おれのため……?」 サンジの言葉に、ゾロは少し考えた。  「少し違うな。」  「………。」  「…おれが…そうしてェんだ。」 サンジの頬が染まった。 あの手拭いを見て、無我夢中でここへ来ていた。 今になって、自分のとった行動に顔から火が出る。  「…何で、ここにおれがいるとわかった?」 ゾロの問いに、サンジはあの手拭いを差し出した。  「…これが…部屋の前に置かれてあった…。」  「………。」  「…お前が…誰かに頼んだんじゃないのか…?」  「そんな事はしていねェ。」  「………。」 サンジは手拭いを握り  「…今日は祭りで…会社の人の出入りも多いから…そうかと…。」  「…頼んでねェ…。」  「…そう…か…。」 だが  「…もう…いいか…お前に逢えた…それだけで…。」 サンジの言葉に、ゾロの眉間にしわが寄る。 ふと、サンジは、粗末な室内に似つかわしくないものを見つけた。 暗がりでもそれとわかる、金と朱の糸で彩られた細長い袋。 サンジの視線に気づき、ゾロは息をついた。  「………見るか?」  「………。」 形で、それがなんであるかサンジにも想像がついた。  「……刀……?」  「そうだ。」 錦の袋を手に取り、房の付いた紐を解くと、中から白鞘の刀が現れる。  「…実の親父の形見だそうだ。」  「………。」  「…育ての親が…決して手放すなと言い残したもんでな…。」 すらりと、ゾロは刀を抜き放つ。 天井が低いため、身体の前に突き出すようにサンジに刀身を見せた。  「……すごい……これが……日本の剣……。」 ドイツでサンジが使っているようなサーベルとは、比べ物にならない重厚さだ。 洋刀は両刃が多く、柄や鞘に細かい意匠があるのが近頃の作風だ。 中世と違い、今は火薬銃器が戦闘の中心となり、腰に差す剣は殆ど飾りの役割しかない。 日本も、戦国の世から銃火器が戦闘の要になったというのに、作りだされる刀は その頃と変わらず重厚さに重きを置いている。 武士の魂とは、よくいったものだ。 白銀の輝き ゾロだ と、サンジは思う 正に、この男が持つにふさわしい輝きだ。 そして、この刀を携えるゾロが、こんな場所にありながら誰よりも高貴で尊く見えた。 今ここに、サンジ以外の人間が入ってきたら、この威厳で思わずひれ伏してしまうかもしれない。  「……こんなもん…もう、何の役にもたたねェのにな……親父があんまり  うるせぇもんだから…ついつい手入れまでしちまう。…アホだ。」  「…そんな事ねェ…。」 ゾロは、サンジの顔を見  「持つか?」  「…いいのか?」  「お前ならいい。」  「………。」 ヨーロッパでは、剣を捧げるのは命と心を捧げる意味がある。 そんな事を、ゾロは知るまいが…。 両手で捧げる様に手渡されたそれに、サンジは恭しく一礼した。 その行為に、ゾロは一瞬目を見開く。  「…日本の刀にも…名刀には名があると聞くけど…。」  「…ああ、コイツの銘は『和道一文字』だ。」  「ワドウイチモンジ。」  「美濃三阿弥関孫六兼元…だとよ。」  「…………。」  「いい。わかんなくて。」 ぷっと、サンジは頬を膨らませる。 笑いながらその頬を軽くつねり、ゾロは刀を受け取ろうと手を差し出した。 ゾロに戻す前に、サンジはその柄に口づけた。  「………。」 刀を納め、袋に戻し、2人はしばらく黙り込んでいた。 謡の声が聞こえる。 先のを上回る下手くそさ。 やがて、ゾロが  「さあ…帰れ。送って行く。」  「…え…?」 ゾロは立ち上がり、少し身を屈めながらサンジを見下ろした。 険しいその顔を見上げながら、サンジは呆然と  「…いやだ…。」  「………。」  「…なぜだ…やっと…会えたのに…。」  「……帰れ。」  「嫌だ!!」 嬉しくないのか? やっと、やっとこうして会えたのに。 お前も、おれと同じ思いだろう?間違ってないだろう? どうして!?  「…いや…だ…。」  「…頼む…。」 頼む 今、ゾロはそう言った。  「……え……。」  「…頼む…帰ってくれ。」  「だから…なぜ…。」  「耐えられそうにねェ。」 遠くで響く、下手くそな琴の音。 絡む、女の笑い声。  「……お前とここで過ごしたら…おれは我慢できなくなる。」 ゾロの言葉にサンジはうつむき、震える手で、ゾロのシャツの襟を掴んだ。 互いに、ずっと堪えてきた。だが、堪えても堪えても――。  「……奪ってくれていい……。」  「………。」  「…おれも…我慢できねェ…。」  「…できねェ…。」  「…だから!どうして!?」 サンジの手を掴み、襟から引か剥がす。  「今、奪ったら、お前が国へ帰った時、おれは堪えられずに狂ってしまう。」  「………。」  「…だから…奪えねェ…。」 見開かれた青い目。溢れる涙。  「………。」  「…送る。帰ろう。」 差し出された手に、自分の手を載せるまで、長い時が要った。 違う 耐えられないのはお前じゃない 堪えきれず、狂ってしまうのはおれの方だ だからお前は そんな優しい嘘をつく  「…おれはここにいる。」  「………。」  「…お前が帰るその日まで…この町に…。」  「………。」  「…だから。」 サンジは、震える足で立ちあがった。 それでも それでも  「…触れる事もダメなのか…。」  「………。」  「…少しでいい…お前の熱を…感じさせて…。」  「………。」  「…そうしたら…帰るから…。」 ゆらりと、崩れる体を抱きとめた。 抱擁ではない。 ただ、支えているだけだ。 それでも、支えてくれている手は熱い。 太鼓の音。 男と女の笑う声。  「………。」  「………。」 このまま このまま 時が、止まってしまえばいいのに  「………。」 やがてゾロが  「………行こう。」  「………。」 うなずき、力なく立ち上がる。  「…また…会えるよな…?」  「…さぁな…。」  「………。」  「………。」  「…はは…。」 小さく笑い、サンジはゾロの肩に額を載せる。 告げる事も、きっとゾロは許してくれないのだろう。 それでもこの男は、こんなにもおれを大事にしてくれている。 なんと高潔な魂 これが、サムライというものか…  「会えるよな…。」  「………。」 答えはないけれど、想いは同じ。 目を擦り、いつもの様に、サンジは笑った。 それをゾロが望むなら、サンジは笑って帰るしかない。 笑顔で返し、肩に軽く手を添えて、ゾロはサンジを階下へと促す。 梯子の様な階段に、足をかけた時だった。  「火事だぁあ!!」 悲鳴が上がった。 その叫びに、2人は思わず身を寄せ合った。 見ると、階下から激しく煙が上がってきている。 火事? 2人の目に火はまだ見えない。 だが咄嗟に、逃げなければ死ぬ、という思考は浮かんだ。 死ぬ 死ぬ? このまま2人で そうすれば が  「降りろ!!」  「うぉっ!!」 想う相手への扱い方ではない。 なんとゾロは、サンジを階下へ蹴り落とした。  「何すんだァ!?」 眦を吊り上げて怒り、サンジは怒鳴った。 だがゾロは  「いいから走れ!外へ出ろ!煙にまかれるぞ!!」  「……っ!!」 飛び降りるよう、ゾロも下へ降りてきた。 サンジの顔を見て叫ぶ。  「…ふざけた事を考えてんじゃねェぞ!!」  「―――!!」 女達の悲鳴がする。 男の怒号が交わる。 そうだ。 バカな事を考えた。 ゾロは、サンジの髪をくしゃっとかき回すと  「火元はどこだ!?」 ゾロの叫びに雑用の娘が  「お、おえんさんの部屋ですぅ!!」 答え、ゾロに促され外へ飛び出していった。 サンジが降りてきたゾロに駆け寄り  「ゾロ!!」  「お前も出ろ!急げ!!」  「女性が先だ!!」 サンジが、パニックになる女郎や下女たちを落ち着かせ誘導し、店の前の小路に避難させる。 だが、店の主らしき男に  「勝手な真似をするんじゃねェよ!この騒ぎに乗じて逃げ出したらどうしてくれんだ!?」  「死なせたらそれこそ大損害だろう!?」 ここ数日。 夏でありながら、湿気の少ない毎日が続いていた。 おえんという女郎の部屋からの出火は廊下を伝い、瞬く間に蓮見屋に広がり始める。 半鐘の音。 無法地帯ではあるが、自分のナワバリまで焼けてしまってはたまらない。 各辻から、手桶を持った男たちがワラワラと集まってくる。 その中で  「おえんはどうした!?」 ゾロが叫ぶ。  「わ、わからねェ!どこにもいねェ!!」  「―――っ!!」 と、ゾロが、出火元のおえんの部屋へ、引き返していった。  「ゾロ――!ダメだ!!」 サンジの声が聞こえたが 煙と炎 逆巻く熱風の中 おえんの部屋のほど近い廊下に、女郎がひとり倒れていた。  「おえん!!」 駆け寄り、抱え起こし、刹那ゾロは愕然とする。 おえんはすでに、こと切れていた。 だがそれは、炎や煙によるものではなく  「……銃…か……?」 おえんの胸に丸く開いた穴から流れる、真っ赤な血。 撃たれたのだ。 誰に――!? そして  「――――っ!!?」 もうひとり その向こうに倒れている男がいる。 ホーディだ。  「………!!」 駆け寄り、ホーディの巨体を揺さぶる。 見ると、その腹からも、血がどくどくと流れ出ている。 一カ所だけではない、銃創は全部で4発あった。  「ホーディ!!どうした!?何があった!?」 ホーディは末町の元締めだが、蓮見屋の経営者ではない。 ホーディが直接営んでいるのは賭場で普段はそこにいる。 こんな場所に、いるはずはない男なのだ。 しかも、瀕死の重傷を負って。 そしてこの火事。この火は失火ではない。明らかだ! 何があった!?  「ホーディ!おい!しっかりしやがれ!!何があったんだ!?」 ヒューヒューと息を漏らしながら、ホーディは途切れ途切れに―――。  「…ゾロぉぉぉぉっ!!」 火勢が強まる。 遠くから聞こえるサンジの声に、ゾロはやむなく女郎の亡骸とホーディをその場に残し、 煤だらけになりながらも外に飛び出してきた。  「ゾロ!!」 サンジが飛びつくより早く、ゾロは雑色の男を捕まえ、尋ねた。  「おえんの部屋には誰がいた!?」 襟首を締め上げられながら、男が答える。  「し、知らねェ!!おえんの客に呼ばれて、ホ、ホーディのお頭が来たのは知ってたが…!!誰がいたのかまでは!!」  「馴染みか!?」  「いや、違う!…初顔だった!!どっかで…見たような気はするんだが…!よくわからねェ!!」  「…そいつ、火が出る前に出て行ったんだな!?」  「……あ!!」  「………っ!!」 ゾロは、自分の腕を掴んでいるサンジを見た。  「………?」 自分を見つめるサンジの肩を、ゾロはぐっと掴んで  「……ここにいろ。」  「…どうした…?何が…?」  「いいから!!ジョニーとヨサクの番小屋に行ってろ!!動くなよ!!」  「ゾロ!?何があったんだ!?」 ゾロは走る。 すでに人は集まった。被害は大きいが全焼はするまい。 蓮見屋から出て、「戻る」には、「あいつ」なら必ず車を使う。 だが今日は人目についてはマズイ。 だから、この辺りでは珍しいガソリン車で乗り付けてくることはない。 しかし、「戻る」には、「あそこ」はここから遠い。 そしてこの時刻なら、まだ駅には俥屋がいるはずだ。 廣澤銅山鉄道は、鉱山からでた鉱石を製錬所に運ぶためと、精製された銅を横浜へ運ぶための鉄道だ。 近在に駅は4つある。 尾田の廣澤倶楽部に一番近い駅と、廣澤銅山工業本社のある駅、そしてそこから先は 貨物車だけが乗り入れる、2つの坑道駅だ。 末町から、尾田の廣澤倶楽部までの3分の1ほどの場所に、その駅がある。 ここには終電まで、数人の俥屋が客を待っているのだ。 増して今日は、廣澤倶楽部の夏祭り。 必ず、「あいつ」は駅に向かったはずだ!! すでに陽は落ち、道は暗い。 だが、駅の灯りを見る直前に  「――――!!」 目指す相手を、ゾロは見つけた。 憎らしい程に、ゆったりとした足取りだ。 その背中に追いつき、息を切らしながらゾロはその名を呼んだ。  「黒木――――!!」 黒い背広の後ろ姿が立ち止まる。 しばらくして、ゆっくりと振り返ったその顔は、まぎれもなく通訳の黒木だ。  「……てめェ……。」 黒木は、いつものあの仕草で眼鏡を上げ  「……下人が私を呼び止めたか?」  「…あァ…てめェに用があってな…てめェ…今…末町で何をしてきた…?」  「…末町…?さて…何の事だ?」  「とぼけんな!!」  「…私はこの辺りを散策していただけだ。」  「…もう一度言うぞ…とぼけんな…。」 ゆっくりと、ゾロは黒木との間合いを詰めた。 ゾロに気圧され、さすがに黒木も後ずさる。  「……ホーディが…てめェにやられたと言った。」  「………。」  「女を殺ったのもお前だな?」  「……何の事だかわからんね。」  「ホーディはともかくも…女は何の関わりもなかったはずだ…!!」 黒木は、冷たい笑みを浮かべ鼻で笑い  「だから…貴様が何を言っているかわからん。」  「てめェ!!」  「失礼する。戻らねばならんのでな。」  「待て!!」 末町の火事が町にも伝わったのか、防災用のサイレンが鳴った。 落盤時とは鳴り方が違う。 黒木の腕を掴み、ゾロは言う。  「…てめェが気に入らねェのは、おれひとりのはずだ…他人まで巻き込む事はねェだろう!?  これがバレたらてめェの身も危ういってのに、ここまでする必要があるってのか!?」 黒木は笑い  「…私の言葉と、お前や末町の女郎や下人共の言葉と、会社と警察はどちらを信じる?」  「!!」  「……私がやったという証拠もあるまい?」  「…お前が出ていく姿を…店のヤツが見てる。」  「…だから…それが私という証拠はあるまい?証明できるのか?」  「…てめェ…。」 ゾロは気づいた。  「…サンジの部屋の前に、蓮見屋の手拭いを置いたのはてめェだな…?」 その時の黒木の笑みは、サンジが見せてくれた物語の本に出ていた魔女のようだった。  「…お前たちの哀れな恋に、手を貸してやったのではないか…。」 黒木は、サンジのゾロへの思いに気付いていた。 ゼフも気づいていたのだ。 サンジのゾロへの態度の全てがそれであると結論すれば、全てがうなずける。 黒木は、ゾロだけが気に入らないのではない。サンジも気に入らなかった。 自分よりも年下の、ただ技師の息子というだけで、自分がへりくだらなければならない 立場に不満を抱いていた。 いや、その状況はサンジがゾロに出逢う以前からだったのだから、 黒木の不満はサンジに対するそれの方が時期早く、深かったかもしれない。 だから、この2人が破滅するのなら、共に破滅させてやりたかった。 様々な障害にぶつかりながら、この2人は互いの思いを決して捨てない。 諦めもしない。泣きもしない。 それどころかその恋に誇りを抱き、互いを深く信じている。 鬱陶しかった。 末町などという場所に黒木が赴いたことはなかったが、末町の元締めやその一派が、 ゾロをよく思っていないという話は耳に入っていた。 だからホーディに、機会があれば彼らの恋を白日の下に晒して、辱める計画があると持ちかけた。 そうすればゾロは、この町そのものにいられなくなる。 末町の蓮見屋にホーディがゾロを紹介したのは、どこかの店の子飼いになれば、 とりあえずでも自分の命令を、ゾロが聞き入れなければならない立場になるからだ。 もっとも、それでおとなしく従うようなゾロではないのだが。 思惑通り、人の出入りが激しくゼフの目が緩む祭りの日、黒木が置いた手拭いを頼りに サンジはゾロの元へやって来た。 客のフリをして女郎の部屋に入り様子を探ったが、なんとゾロは、サンジに指一本触れず返そうとした。 困るのだ。 それでは困る。 もっと、互いに想いを高ぶらせればよいものを…。 そうとも いっそ 火事でも起これば、互いに末を儚んで、手に手を取って心中を選ぶという事もあるかもしれない。 その悪魔の思考が、黒木の手を突き動かし、延べられた薄い布団の上に行灯を倒した。 その瞬間、酒を手にしたおえんが戻ってきたのだ。 悲鳴を上げる瞬間のおえんの口を、黒木は懐に忍ばせた拳銃で塞いだ。 拳銃は、昔手に入れたもので、護身用に持っていた。 ホーディがサンジに蓮見屋を教えたのは、サンジが来たと黒木が知らせに行かせた折の事だったのだ。 ホーディ自身も、心の中でしてやったりと思っただろうが、 今度は黒木が女郎を殺す場面に、出くわしてしまった。 黒木にとっては、間の悪いことこの上ない。 相手は賭場の頭、女郎屋の元締め、放っておけば生涯脅迫されるのは必至。 黒木の計算は早かった。 大柄なホーディは、一発では倒れなかった。 4発撃つまで、ホーディは膝をつかなかった。  「…最低な野郎だな…。」 ゾロの言葉に、黒木はこめかみをひくつかせた。 そして、懐から取り出したものをゾロに向けた。  「………。」  「……あと一発残っている。」  「………。」  「…黙って…このまま立ち去るか、死ぬかのどちらかだ。」  「………。」 黒木の指が、撃鉄を上げた。 と  「残った弾は一発だな?」 突然響いたその声に、ゾロは目を見開く。 青ざめたのは、黒木も同じだ。 草を踏みしめ、近づく足音。  「…その一発でゾロを撃ち殺しても、おれがいるぞ、黒木。」  「………貴様………。」 サンジだ。 しかも  「……サンジ…てめェ……!」  「…説教は聞かねェ。」 サンジの手に、ゾロの『和道一文字』。 初めて持つ刀はかなり重いであろうに、サンジは片手でゆっくりと刃先を黒木に向けた。 サーベルの構えだ。 日本の武道を知らないサンジは、刀の構え方を知らない。  「…撃ってみろ…お前がゾロを殺したら…次の瞬間おれがこれで、お前を殺す。」  「……おやおや…医学を志す者のお言葉とは思えませんね。」  「………。」  「およしなさい、アレクサンデルさん。それは子供のおもちゃではありません。」 ゾロが言う。  「観念しろ。分が悪いのはてめェの方だ。」  「………。」 次にサンジが  「…このまま…おれ達の前から消えろ…。」  「………。」 だが、黒木は動かない。 ゾロに狙いを定めた銃口を下ろしもしない。 ぐっ!と、引き鉄にかけた指に力が籠るのがわかった。 瞬間、ゾロはサンジの手から刀を奪い  「―――――がはっ!!」 黒木の口から、白い吐瀉物が吐き出された。 サンジが我に返ると、腹を抱えて意識を失い倒れた黒木と、刀を前に突き出すように腰を落としたゾロがいた。  「…ゾロ…。」  「…峰打ちだ…死んじゃいねェ…しばらく動けねェだろうがな。」 ぶん!と刀を一閃させ、白銀の刃を鞘に納める。 キン と美しい音がした。  「…行こう。」  「…どこへ…?」  「廣澤倶楽部に決まってるだろ。」  「………。」  「…待ってろと言ったのに…。」  「…でも、助かっただろ?」  「………。」  「素直に『助かった』って言えよ。」  「………。」 怒っている。 それもそうか…。  「帰るぞ。」  「…うん…。」 ゾロが、手を差し伸べた。 触れると 強く握り返してきた。  「………。」 今になって、涙が出る。 黒木は白目を剥いて倒れたままだ。 おそらく、もう廣澤倶楽部には戻ってこないだろう。  「歩けるか?」  「バカにすんな。」 片手に和道を、片手でサンジの手を握り、歩き出した。 可哀想な犠牲者を出した末町の火事は、蓮見屋を半焼するのみにとどめた。 末町の元締めホーディは、4発もの銃弾を腹に食らい、火と煙にまかれながらも生きていた。 ゾロが、近場にあった布団を水に濡らし、倒れて動けないホーディにかぶせて行ったのだ。 黒木は、即日解雇された。 その3日後 鉱山から流れ出る鉱毒で赤く濁った谷川に、黒木の死体が浮いていた。 ホーディらに、報復されたのは明らかだった。 しかし証拠は何もなく、黒木を殺した犯人は見つからずじまいだった。 BEFORE    NEXT                     (2013/12/29) 華の名前-百億の夜-TOP NOVELS-TOP TOP