　華の名前-百億の夜-（10）　

ルージュにも、エースにも、ドナーがサンジであることは隠していた。ルージュはずっと入院していたし、エースは病院近くのホテルに泊まっていたので、サンジが入院準備をしていても気づかれずに済んだ。ドナーがサンジであると知ったら、２人とも拒むとわかっていた。だからといって、全くの赤の他人なら素直に受けるのかと考えたら、それはそれでエゴイズムだ。ドナーもレシピエントも、本来ならば互いの素性を明かさないという基本は、善意の重さという点でも重要であると痛感する。サンジの決意は揺らぐことはない。１００％安全とは言えないが、リスクの高い術式ではない。医者はそう言った。確かに、骨髄移植のドナーで、後に何らかの後遺症をもったもの、最悪死亡した者はごくごく稀だ。それでも、その例がゼロではないとなれば不安もある。どうして、お前なんだ？その問いを、あの日から何度心で繰り返したか。失う事はもちろん、傷つけたくもない。今まで一人で生きてきて、全てに背を向け生きて、その暗い道を照らしてくれた存在なのだ。　「…お前がおれに何の用だ？」 S市は観光で成り立っているという都市ではない。なので、ホテルといってもごく普通のビジネスホテルくらいしかない。最近、『旧廣澤尾田倶楽部記念公園』近くに道の駅が出来、市の支援で民間企業が温泉を掘り当て、そこにホテルを建てる計画もあるがそれはまだ少し先の話。ローが滞在しているホテルはそんなビジネスホテルで、ロビーもレストランも簡素なものだ。そのレストランの一角で、ゾロはローを睨みつけていた。コーヒーが嫌いと言っていたが、今飲んでいるのはバリバリ日本テイストのほうじ茶だ。　「…まァ…貴様がおれに用事となれば…サンジの事だろうが。」ゾロは、眉間の皺を深くする。だが、自分を抑え　「お前が、サンジの手術をするわけにはいかないか？」　「…なんだと…？」　「……お前なら…絶対サンジを傷つけねェと踏んだからだ。」ローはあからさまに、ゾロを小馬鹿にした笑いを洩らした。　「何がおかしい…？」　「決まってる。お前があまりにバカだからだ。」　「――――っ！！」　「…日本の医師会は閉鎖的だ。自分の病院の内で、全く関係のない医者を手術室に入れるものか。」　「…それは…。」　「それに、なんでおれが骨髄採取のできる医者と勝手に思う？全くの門外漢だとは思わないのか？」ローの日本語は達者過ぎた。『門外漢』などという言葉、今の若者は滅多に使わない。　「…できねェのか？」　「できる。」　「！！！！！」食いつく様に身を乗り出した。まるで虎のようだとローは思う。　「……お前の申し出を受けた、その時の報酬は？」　「…報酬…？」　「当たり前だ。ボランティアじゃねェ。」　「サンジだぞ…！」　「依頼人はお前だ。」　「！！」ローは笑い　「サンジに帰れと言ってくれるか？」　「…言うか！！」　「だったら、この交渉は決裂だ。」　「てめェ！！」　「安心しろ。あの医者は優秀だ。」ローは湯呑を置いて立ち上がり　「エゴイズムにもほどがある。頭を冷やせ。」　「…おい！！」　「…おれなんぞに頭を下げるほどあいつに惚れているのに、あいつの決意は認めてやれねェのか？　おれはそんな奴に、あいつを任せるつもりはねェ。この手術が終わって回復したら、　あいつをドイツへ連れて帰る。」　「……てめェ……。」　「あいつが泣いて嫌がろうが、力ずくだろうが構わねェ。」ゾロは、精一杯の虚勢を張り、口元を歪め、笑いながら　「……やってみろ…サンジは生涯お前を恨んで憎むぞ。」　「…ほう…自信満々だな…。」　「………。」　「それでもおれは構わねェ。」こいつもしかしてローは、エレベーターホールに向かいながら、いったん立ち止まり　「おい。」　「………なんだ？」　「……仮に自分が死んだとしても、あの女が助かるなら、サンジは満足なんだろうよ。」　「………。」　「…そういう男だ…。」　「わかってる！！」　「なら。」　「―――！！」　「言ったらどうだ？やめろと。おれの為に、そんな危ない真似は止せと。」　「！！」　「…できねェよな？サンジを止めたらあの女は死ぬ。」選べないだったら信じるしかないサンジを知るまで、怖いものなど何もなかった。心が折れた時でさえ、自身のプライドが砕かれたことが悔しかっただけだ。こんなに、何かを失うのが怖いと思ったことはない。医者は、手術の説明の中で『万が一』という言葉を何度も繰り返す。『万が一』の言い訳を、何度も何度も繰り返す。不安になるなという方が無理だ。増して、全くの健康体である身体に術式を施すのだから。それが、赤の他人なら、欠伸をしながら聞くこともできるのに。だが、ルージュを救いたいとも切に願う。あの優しい、海の様な心の女性を、このまま死なせたくはなかった。　「……八方美人はおれもか…。」自分で自分を笑い、ゾロはホテルを出た。暑いな夏が近い明日、サンジが入院する。そしてその２日後、骨髄液採取と、ルージュへの移植が行われる。昨日見舞いに行った時、エースは何も知らないまま、嬉しそうな顔で母の手を握り「もうすぐだよ」と、弾んだ声を上げていた。ぶっ殺してやりてェと思う自分が嫌になった　「あ、ゾロ。」夜半ブルックが休んでからゾロが風呂に入り、サンジがキッチンでゾロを呼び止めた。呼ばれ、いつもの椅子に腰かけながら　「…なんだ？」サンジはいたって普通の表情で　「おれがいない間、ちゃんとじいさんに飯食わせてくれよ？」　「ああ。」　「ロビンちゃんもウソップも…様子見に来るって言ってくれたけどさ…ああ、向かいのオバサンも。」　「ああ。」　「…九州の仕事、伸ばしてもらったってレイリーが言ってた…別によかったのに…。」　「…行ったところで仕事にならねェよ。」　「………。」サンジは笑い、カウンターの上に載せられたゾロの手に自分のそれを重ねた。　「…ごめんな。」　「何でお前が謝る？」　「…うん…だよな…でも、なんとなく。」　「………。」ぎゅっ　と、ゾロはサンジの手を握る。　「…すまねェ…。」ゾロの言葉に　「…なんでお前まで謝る？」　「………なんとなくだ。」　「ヘンな奴。」手を握ったまま、ゾロはカウンターテーブルに顔を突っ伏した。サンジも、黙って好きにさせていた。　「…ルージュさんを助けるよ…。」　「………。」　「…誰に頼まれなくたって…おれは…ドナーになった。」　「…相手がルージュさんじゃなくても、てめェは…そうするんだろ…？」　「…………どうかな？」　「………。」　「…これがお前だったら…お前だって…同じようにするだろ？」　「………。」サンジは身を屈め、ゾロの背中をさすり、その髪に頬を寄せながら　「…帰って来るよ…。」　「………。」　「…おれが…帰って来る場所はここだから…。」　「………。」　「…帰ってきて…また…ブルックと３人で…楽しくやろう…。」　「………。」　「…ドイツにも…おれは帰らねェ…。」　「………。」　「約束だ…。」いきなり、引き寄せられ、抱きしめられ、そのまま抱え上げられた。少し驚いたし、まだキッチンでやりたい事も残っていたが、サンジは黙ってゾロの首に手を回した。決して急がず、だが何かを決断したような顔で、ゾロは自分たちの寝室のドアを開けた。この家で一番広い部屋。シングルのベッドとセミダブルのベッドが置いてある。ゾロは、サンジが使っているセミダブルのベッドの方へサンジを抱えたまま倒れ込んだ。　「…な…あんま…激しくすんなよ…明日…すぐ検査なんだから…。」　「…うるせェ…。」　「………。」天井まで届くような、サンジのため息。でもゾロの手が好きだ。こんな固い武骨な手で、あんなに美しい花を咲かせる。あんなに華麗な樹影を作る。その手で髪を撫でられ、肌に触れられると、とても幸せな気持ちになる。こうして、触れられて、触れて、愛し合えて、おれ達は幸福だと思う。わかってはいるブルックやロビンちゃん達のように、祝福してくれる人なんかほんのわずかだってことも今でさえそうなのだから、アレクサンデルの時代は到底叶えられるはずのない想い。それでも、彼らは互いの思いを貫いた。別れの時まで、彼らはどんなふうに愛を誓い合ったのだろう？決して想いを告げず、告げさせず、それでも互いを思い続け、生涯それを棄てなかった。おれもそうでありたいロジャーとルージュはきっと、仮に死が２人を分かつとしても、その先にある未来だけを見つめると約束したのかもしれない。その未来がエースなのか、ロジャーの夢なのかはわからないけれど、だからルージュさんはあんなに強く、夫の帰りを待つ女でいられるんだ。互いの見つめる未来さえブレなければ、たとえ身が遠くに離れても、想いは重なったまま離れない。　「…なァ…ゾロ…。」　「…なんだ…？」　「…ちょ…気が変わった……これが全部……ん…っ……終わった…ら……。」　「…気が変わった…？」瞬間、ゾロの手が止まった。刹那、快感を途切れさせられた失望が、サンジの唇から漏れた。　「おお、悪ィ。」　「んァ…っ！…バカ…やっ…！…ちょ…真面目に…ふぁ…っ…聞け…って…！」　「…言えよ…ちゃんと聞いてる…。終わったら？」サンジの脇腹に舌を這わせながら、溜め息のようにゾロが言った。　「……一度…ドイツに帰る。」　「――――！！」ゾロの手が停まった。しばらく、そのまま動かず何も言わなかったが、ゆっくりと身を起こし　「………。」　「…お前でも…そんな半ベソ顔になるんだな？」サンジは笑い、両手を伸ばしてゾロの頬を撫でた。　「…お前ェ…。」　「一緒に行こう。」　「！！」薄闇の中で、ゾロの目が見開かれた。サンジは、藤の移植の時切れて弾けたロープで傷つけた、ゾロの瞼と頬の傷跡に、そっと触れた。　「ドイツへ行こう。おれの家に。」　「………。」　「…そして言う…お前と生涯共にありたい…叔父貴との約束を…破ってごめんって…一緒に…謝れ…。」　「………。」　「…ン…？」サンジの頭を抱え、抱きしめ、頬に口づけ　「…それでいいのか…？」　「…何でそんなこと聞くんだ？」　「………。」　「…いいに決まってる…。」ゾロの頭を抱え抱きしめ、サンジは言う。　「それがおれの…未来だ。」　「………。」小さく、サンジが笑った。形良い白い歯が見える。　「…ホラ…抱け…しばらくデキねェからな…？」　「………おう。」　「もう一度言うが、あんま激しくすんなよ？てめェ見境なくなるんだから。」　「いつもお前ェが、〝もっとォ〟ってツラでせがむからだろうが。」　「――――っ！！！んなワケあるかァァァ！！？」翌朝夜中の大喧嘩にブルックが　「…いつもいつも、どうして静かにデキないんですか？」文句を言ったのは言うまでもない。微妙に違う、片仮名部分のニュアンス。その日の午前中にサンジは入院し、手術は予定通りその２日後に行われ、サンジもルージュも無事に全てを終えた。後は、ルージュに移植したサンジの骨髄液が拒絶反応を起こさず定着し、動き始めてくれるのを祈るのみだ。エースが、サンジがドナーであることを知ったのはその日の午後、手術の最中の事だ。レイリーから告げられた。怒り、だがあまりの事に何も言えず大泣きを始め、ゾロに外へ連れ出された。八つ当たりされ、２人がズタボロになって戻って来た時、ドナーであるサンジが手術室から出てきた。エースが眠っているサンジの手を握り、また大号泣したので、今度はレイリーが連れ出そうとしたが　「エース！！」息を切らせて、手術待合に駆け込んできたのはロジャーだった。ロジャーは、驚くエースの襟首を掴むや　「ルージュはどうしたぁぁぁぁ！？」　「今来てそれを言うのか！？バカ親父―――ッ！！」ケンカを始めそうな一触即発の時、手術室から医者が出てきて、ルージュの方も無事終わったと告げた。途端に、我を忘れた父と息子は、両脇から医者を挟み込んで抱き合い、ワンワン泣いた。　「似た者親子だ。」ゾロの呟きにシャッキーが　「フフ…でしょ？…ゾロちゃん、サンジちゃんトコにお行きなさい。こっちはもう大丈夫よ。」　「…はい。」確かに、ロジャーはルージュに惚れている。それもべた惚れだ。サンジの病室へ向かおうと待合を出た時、ゾロは歩いていくローの後ろ姿を見た。チラリとだったが、間違いなくローだ。　「………。」ゾロがサンジの病室に行くと、ブルックがサンジの枕元で髪を撫でながら　「…おつかれさまでした…。」と、安堵の息を洩らした。　「…今、ローが来なかったか？」　「ローさん？…いいえ？どなたも。」　「………。」　「ローさん…いらしてましたか…？やはり心配ですよね…。」　「………。」　「兄弟のように育ったと、仰ってましたから…。」　「……ああ……。」眠っているサンジの顔は、何処か満足げで―――。　「ご苦労さん…。」ゾロも、サンジの頬を優しく撫でた。この花が咲くのを見るのは３度目だ。この花を初めて見た時、美しかったがそれ以上の感慨も持たなかったのに。想いに気付いたのは、この樹の下だった。花ではなく、雪が舞っていた。サンジは知らない事だが、ゾロが自分とサンジの想いに気付いたのもやはりこの樹の下だった。こんな風に、満開の花の下だった。気づきたくなかった。この日が来るのは分かっていたのだから、気づかなければよかったものを、なぜ、気づいてしまったのだろう…。藤の房が木を覆い始めた頃、ゼフはサンジにここを去る日を告げた。契約が切れたのに、廣澤男爵は滞在を許し、給料まで払ってくれていた。必要以上の好意を受ける訳にはいかない。ヨーロッパまでの船も手配した。荷物も、ほとんどを送り終えた。母と姉からの、もうすぐ会えるという喜びの手紙がつい昨日届いた。帰るのだドイツへもう、あの王はおらず、サンジの憂いは何もない。なのに、なぜこんなに苦しい。　「…この樹…ずっと残るかな…。」サンジの言葉にゾロが　「…銅が出続けて、廣澤が潤う限りは…残るんじゃねェか？」　「…親父が言ってた…あと１００年は…産出する山だって。」　「じゃ、残るだろ…おれ達が死んだ後も、きっと咲く。」　「…そうだと…いいな…。」時刻はもう深夜に近い。それでも今日は、必ずゾロが来ると待っていた。テラスに何本ものキャンドルを立て、灯して、廣澤倶楽部の春の庭は幻想的に映えている。サンジはテーブルに置いた木箱を指差し　「このブランデー、置いてくよ。」　「おお！ありがてェ！！」　「…うわぁ…そんな嬉しそうな顔初めて見たな。」　「そうか？」　「重てェぞ？しっかり抱いて帰りやがれ。」　「死んでも落とさねェ。」笑いが、灯色の薄闇に響く。　「それと…もうひとつ。」サンジはポケットから金鎖の付いた懐中時計を出し、ゾロの手を取ろうとした。が　「要らねェ。」　「持っててくれ。おれがずっと、身に着けてたもんだ。」　「………。」　「他に何も、渡せるものがない…。」　「こんなもの欲しくはねェ。」　「お前が要らなくても、おれは持っていてもらいたいんだ。」　「…こんなもん…お前の代わりにはならねェよ。」　「………。」　「…金に困ったら、売っちまうかも知れねェぞ。」　「いいよ。それでも。」　「………。」　「それで…お前の糧になるなら…それでもいいんだ…。」　「……馬鹿が……。」　「………。」白い指が、赤銅色の手の上に金の時計を載せる。シャラン　と、涼しい音がした。　「…同じ時を生きている…そう信じていてほしい…。」　「…ああ…。」耐えて耐えてずっと耐えて互いの名を呼ぶことさえ堪えてきた。彼の手に載せられた時計の鎖の端から、指を離せなかった。繋がっている細い糸。その指を　「―――！！」彼の方から、触れてくれたのは初めてだった。握られた手に、また手を重ね引き寄せられた。愛されている確かな想いが伝わってくる告げたいこの想いを　「言うな。」　「………。」　「…言うな…それ以上は言っちゃいけねェ…。」　「………。」　「…おれが…堪えられなくなる…。」　「……堪えないで…いい……。」　「………。」　「………。」白い花はまるで星屑のようで、漂う豊かな香りに頭が痺れた。彼の腕は強く、暖かく、それでいて掌は冷たい。白い手を銅色の頬にあて、引き寄せた。サンジの目から、涙が溢れる。目に映るゾロが滲んで見える。ダメだしっかりこの顔を目に焼き付けていくんだ。絶対に、この顔を忘れちゃいけない。間近にある顔に、手を伸ばし至る場所に触れる。ゾロもまた、サンジの顔を両手で包み全ての場所に指を這わせた。目とその指で、記憶しようとするかのようだった。愛してる愛してる声に出したいけれどその言霊を声にしたら、おれは、もうこの腕から離れられない。だから止めてくれ零れそうになる言葉を、どうか止めて　「……一度だけ……。」目を閉じ互いの頬を包み重ねた長く甘く熱くこのまま、誰か魔法をかけてくれないか？呪いでも構わない。この時が止まるなら…… 　「……駅には行かねェ……。」　「…うん…。」　「…だが…必ず見送りに行く…。」　「…うん…。」　「………。」　「…うん…。」出立は、明日。ルージュが麻酔から目をさましたのは、手術から２時間後だった。枕元にロジャーが居るのを見てぼんやりとしながらも笑い、ポロリと涙を落とした。ロジャーの隣にエースもいた。２人の顔を何度も見比べながら、ルージュはまたポロポロ涙をこぼす。　「…ロジャー…エース…。」動かそうとする手を、先に息子が取った。ロジャーは照れくさげに、ルージュの頭をポンポンと叩く。　「…ねェ…。」　「ん？」　「何だい？母さん？」ルージュはにっこりと笑い　「…キンコバくんとタヌたんたん、どっちがカワイイ？」その問いに、父と子は声を揃えて　「どっちもカワイクねェ。」と、答えた。這う這うの体で病室から逃げ出すロジャーとエースを、目撃したのはシャッキーだけだった。ルージュが麻酔から覚めた。なのに、先に麻酔をかけられたサンジの方がまだ目覚めない。医者も、数時間かかることはよくあると言っていた。しかし翌日、１２時間経っても目覚めない段階で、さすがに医師たちは慌てはじめた。サンジの麻酔が切れない。昏睡から戻らない。意識レベルが低く、反応もないのだ。様子を見にやって来たローも、さすがに顔を青ざめさせた。医者の説明に、ローは専門用語であれこれを訊問のように問い返し、ついには医者が　「原因がわかりません。」としか答えようがなくなった。点滴で栄養を補給しながら、あらゆる処置を施す。生命の危険はない、脳の損傷も破壊もないが、意識が戻らないという事はほぼ植物状態に近いのだ。３日続いたら、本当に植物人間になる可能性が高いという。２日目の夜。車いすをエースに押され、ルージュがサンジの病室にやって来た。枕元で、眠るサンジの頬を撫で、眉を寄せながら　「…あなただったの…サンジくん…。」沈黙の中に、生命維持装置の信号音だけが響いている。　「…ありがとう…でも…ごめんなさい…。」手を握り、泣き崩れる。　「ごめんなさい…ごめんなさい…ごめん…なさ…い。」ゾロが　「…謝るな…。」ルージュに対し、初めて荒い口調でゾロが言う。　「…あんたが謝ったら…こいつは怒る。詫びないでくれ…。」　「………。」　「…こいつは…まだ死んじゃいねェ…。」　「………。」エースが、病室にいたローを促し外に出た。そして　「…まさか…本当にこのままなんてことはねェよな…！？」　「…わからん。」　「わからんって！お前ェ医者だろ！？」ローは鬱陶しげに　「…カルテを見せてもらった…全ての経過に問題はねェ。原因がわからねェものに施す手はねェ。」　「…お前ェ…サンジが心配じゃねェのか！？」ローは、エースを冷ややかに睨み付け　「…よかったな。母親が助かって。」　「！！」　「…何も言うな。少なくともおれとあの男の前ではな。」言い残し、ローは病室ではなく外来棟の方へ歩き始めた。そうだエースには、何も言う権利はない。ただ、サンジが無事に目覚めるのを祈り、待ち焦がれるゾロを黙って見ているしかないのだ。出発の朝ゼフは私室の全ての引き出しを開け、忘れたものがないか確認した。息子の悲しみは分かるが、帰国し、妻と娘に会えるという喜びは隠せない。昨晩、女中たちに心づくしを渡し、もし何か忘れ物があったらそれは全て自分たちで分けてくれていいと伝えた。なので、わざと残していくものもある。特に、残していけば必ずゾロの手に渡るであろうものも多かった。それらの殆どは書物である。何かの役に立ってくれることを祈った。そろそろ、タイを結ぼうとした時　「先生！先生！！」おくまが、駆け込んできた。その慌てた声に、一瞬、サンジが逃げ出したのかと心臓が鳴ったが　「先生！…坊ちゃんのご様子が変です！！先ほどからずっとお声を　かけているのですが、お目覚めになりません！！」　「……なんだと……？」ゼフがサンジの部屋に行くと、書生に使っていた青年がサンジのベッドの枕もとで、必死にサンジを揺り起こしていた。　「…おかしいです…全然反応がありません！！」ゼフが咄嗟に考えたのは、ゾロとの別れを悲しみ世を儚んで、自ら服毒でもしたのかという事だった。だが、室内のどこにもその形跡はなく、遺書もなく、体に傷は全くない。何よりも、しっかりとした寝息がサンジの口から漏れていた。眠っているのだ。深く深くだが、ここまで揺り起こしているのに目覚めないのは異常だ。　「アレクサンデル…！起きないか！！…サンジ！！」傷ついた精神が、現実に戻るのを拒むかのように、サンジの眠りを捕らえて放さなかった。昨夜、ゾロと過ごしていたのは知っている。しかし、明け方近くにゾロはここを出て行った。知っている。ゼフはずっと、自分の部屋から庭の様子を見ていた。信じていたが、不安だった。このまま２人で逃げるのではと何度も疑った。息子達は間違いを犯さず最後まで清廉なまま、その手を放した。我が子ながら、あっぱれだと思った。相手の男も、手放すのが惜しいと心底思った。サンジの表情は晴れやかで、決して、馬鹿な間違いを犯す様子はなかった。なのにそこまで、悲しみは深いのか…サンジ…。　「…サンジ…サンジ…起きないか…！」答えはない。明日の晩までに目覚めなければ、覚悟をしてくれと告げられた。生命維持は続けるが、その判定をする作業に入ると言われた。医師側も、予想外の現状に戸惑い大慌てでいるようで、またゾロは、医者の説明の半分も意味が解らなかった。ローは分かっているようだが　「…言い訳が殆どだ。かいつまんでも結局のところ、『わからねェ』それだけだ。」だとすれば、為すすべがない。ただ、ローが　「できるだけ側にいて声をかけ続けろ。その位ならお前にもできる。」言葉はぶっきらぼうで意地悪だがだからゾロは、ずっとサンジの側にいる。誰かが代わろうと言っても、それに答える事さえせず、サンジの手を握って離さなかった。夜遅く、ゾロがわずかにウツラウツラした時だ。病室のドアが開いた。看護師かと顔を上げたら　「社長…。」「よ」と小さく声を上げ、バツが悪そうにロジャーが入ってきた。サンジの顔を覗き込み、わずかに首を傾げて　「別嬪だな。」　「………。」　「…悪ィことをしたな…。」　「…言わないでください…。」　「………。」　「やると言ったのはこいつなんで…。」しばらく、沈黙が続いたが　「社長。」　「ん？」　「…なんで…ルージュさんやエースをほったらかして…飛び回れるんですか？」　「………。」　「…なんで…平気なんですか？」ロジャーは、ポリポリと鼻の頭を掻き　「惚れてるからだ。」　「………。」　「…側にいるとな…なんでもかんでも心配になっちまうんだよ。」　「………。」　「そうなるとな…気が狂いそうになるんだ。」ロジャーは腕を組み、少し考え　「あいつが何をどういったかしらねェが…どっちかっつーと、　おれの方がルージュに一目惚れでなァ…。」　「………。」　「…最低最悪の旦那になるのはわかってた。だからダメだと言ったんだが、　ルージュの奴はそれでちょうどいいとか言いやがって…。」　「………。」　「…どこかで生きてるなら…まァ…いいだろって思ってよ…。」　「………。」　「だから…死んじまうのは…耐えられなかった…。おれは、病気に関しちゃ何もできねェ。　だから…側で苦しむあいつを見てるのは辛くてな…。」そしてルージュの方も、自分のせいで苦しむロジャーを見ていたくなかったのだろう。愛しているから　「…ありがとうございます、社長。」　「おいおい、礼を言うのはこっちだ。」　「………。」　「ありがとな。」　「………。」ゾロに告げ　「ありがとな…早く、目を覚ませよ。」サンジに告げ、ロジャーは出て行った。　「………。」起きろサンジみんな待ってる BEFORE 　　 NEXT 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（2013/12/31）華の名前-百億の夜-TOP NOVELS-TOP TOP