目を覚ました時、ぼやける視界に映ったいつもと違う天井に、サンジは一瞬戸惑った。



昨日までの出来事



何もかもが夢で、半身を起こせば、また普通に立って歩けるような気がした。

この家で、この部屋で、寝起きをしていた頃は思いも寄らなかった今の自分。



 「………。」



手を額に載せ、深く息をつく。

昨日の晩、パティとカルネに無理矢理車に乗せられて、この家に帰ってきた。

いや、連れてこられた。



帰ってきたくて帰ってきた訳ではないのに、父親は、息子の顔を一目見るなり

「何しに来やがった、この役立たず。」と、吐き捨てるように言い、厨房へ戻っていった。

パティが色々言っていたが、カルネが、「それでも、帰れとは言わねぇだろ?」と、言い、ヤツラもまた店へ戻っていった。



帰ってきてもすることのない、一層の孤独を感じさせるこの場所へ、来たくなどなかった。



昨日の午後

店の扉を開けた瞬間に、かつての仲間は皆、諸手を上げて歓迎してくれた。



元気だったか?

調子はどうだ?

店は順調か?

この前、雑誌に載っただろ?



そして



ゆっくりしていけよ。



と、労わってくれた。



顔で笑って、『ありがとう』と言い、心の中で、『バカヤロウ』の言葉を吐き捨てる。



誰も



 「タップリこき使ってやる。」



とは、言わない。



父親の、『役立たず』という言葉の方がありがたかった。



ベッドの中から、かつての自分の部屋を見回す。



全ての反対を押し切って、出て行った時と少しも変わっていない部屋。

ホコリひとつない、きれいに掃除された部屋。

机の上に、専門学校時代の教科書。

イタリア語とフランス語の辞書。

壁にかけたコルクボードに、学生時代好きだった女優と、サッカー選手の写真。

本棚にはコミックスと、高校時代、サッカー部のエースストライカーとして全国大会まで行き、MVPを取った時の盾。



サッカーでは、埼玉のJ1チームからもスカウトされた。

プロサッカ−選手になるか、コックになるか、本気で悩んだ。

やっぱりコックになりたかった。

そして、なった。



フランス、イタリア、スペインにも行った。

ニューヨークの日本料理店で、働いたこともあった。

修行を終えて戻ってきて、この店から、さらに三ツ星レストランの副料理長に引き抜かれ、修行のひとつとして送り出してもらい、そこで―――。



あの悪夢の事故。



後日、支配人と料理長、そして警察に、事故の原因を聞かされたが、もう覚えちゃいない。

原因なんか、どうでもいい。



結果は、これしかないのだから。



半年たって、ようやく退院した頃、和解とかが成立して、オレの口座にとんでもねェ金額の金が振り込まれた。

それでも、一生を台無しにされた代償としては安すぎる、と、親父の雇った弁護士が言っていた。



そうか



これが、オレの脚の値段か。



笑いしか、出てこなかった。



Jリーガーになっていたら、こんな金額じゃすまなかっただろうな。

まぁ、もっとも。

あんな目にも、きっと会わなかった。



その金を、全てつぎ込んで作ったオレの店。



今では、あの店がオレの家だ。

オレの、いる場所だ。



だから



だから



 「……ゾロ……。」



思わず声に出して呼んでいた。



だからこそ、ゾロに出逢えた。

ほんの一瞬の出会いだったけれど、あんな目も眩むような恋は、多分もう、二度としない。



いや



初めてだった。

あんなに誰かを、好きになったことはなかった。



中学の時、初めて女の子と1対1で付き合った。

受験を理由に疎遠になり、高校が分かれて自然に消えた。

高校の時も、季節が変わるごとに、まるで服を替える様に彼女を変えた。

専学の時も、ヨーロッパに渡ってからも。

こじれたことは一度もない。



あたりまえか。

本気で、相手を好きになったことなんかなかったんだから。

だからいつも、相手の女の子は、自然とオレから離れていった。



自分を好きにならない男を、いつまでも追いかけるような馬鹿な真似はしたくない。

そんなタイプの女の子ばかりと付き合った。



そんな自分が



初めて、本気で好きになったのが男だなんて、自分でも驚いた。



でも、イカレちまったんだ。



あの顔に。

『美味い』と、言ったあの声に。

あの瞬間に。



嬉しかった。



本当に嬉しかった。



足が、自由に動いたなら、抱きついて感謝したかもしれない。



お前がシャッターを切ったあの瞬間。

「やられた」と、思った。

トンでもねぇ顔を撮られたって、思った。



心臓がバクバク鳴ってた。



聞いてみた。

2人は恋人同士か?って。



違う。



ナミさんはそう言った。

あの必死の否定を、真に受けなきゃよかった。



うそつきナミさん。

好きだから、必死で否定していたんだね?



好きだから



うそを



ついた。











オレも



ウソを



ついた











出て行け

触るな

同情なんかいらねェ

二度と来るな





 『…欲しいんだ…!お前の全部、欲しくてたまらねぇ…!!』





オレも





本当は欲しいくせに。

あの腕が欲しいくせに。

あの笑顔が欲しいくせに。

あの手で、力の限り抱きしめて欲しいくせに。



手



怪我



酷いんだろうか?



神経を傷つけたりしなかったか?



ゾロ



ゾロ



ごめん



ごめん



あんな怪我、させるつもりなかった。

あんなふうに、傷つけるつもりなかった。



本当は、オレも、お前の全部が欲しくてたまらなかった…。











ナミさん



もう、自分の気持ちをゾロに告げただろうか?



告げられて、ゾロはそれを受け止めてあげただろうか?



いやな光景が、固く閉じたまぶたの裏に焼きつく。

いやな想像が、脳裏の中で映像を結ぶ。



告げて、涙するナミさんを、ゾロが優しく抱きしめる光景。

受け入れて、その言葉にうなずくゾロの姿。



イヤだ。

イヤだ。



本当は、嫌で嫌でたまらない。



偽善者なオレ。

うそつきなオレ。



こんな自分、切り刻んで捨ててしまいたい。









 「チビナス!!」



階下からの怒鳴り声に、サンジはびくりと身を震わせた。



 「いつまで寝とぼけてやがんだ!?ゴロゴロする暇があるなら、とっとと降りてきて手伝わねェか!?」



父であり、レストランバラティエ・オーナーシェフのゼフ。



 「……今、行く!」



サンジはホッと息をついた。



嫌な妄想から解き放たれた、妙な安堵感。

ベッドから降り、着替えて店へ降りる。

サンジの体が今のようになってから、自宅の階段に昇降機をつけた。

1階が店、2階が自宅。

サンジがいなければ使わないものだが、それでも、昇降機はサンジを載せてスムーズに1階へ降りた。

いつ、サンジが帰ってきてもいいように、半年に1回のメンテナンスを、きちんとやってもらっているのだと聞いた。



午前9時



厨房はランチの仕込みで、コック達は忙しく右へ左へと動き回っている。



レストラン・バラティエ

サンジの営む“オールブルー”とは、比べ物にならない広い店内。

客席は15席だけだが、フロア・厨房の広さ、コックやウェイターの数はそこらのファミレスの比ではない。



都心の一等地にある、隠れ家的ビストロ。

オーナーゼフの料理に、足しげく通う常連は多い。

その中には、有名な作家や役者、政治家もいる。

かといって、ゼフは決して驕った態度を見せず、でも、公平に、無作法に客に応対する。

一見すると、居酒屋のガンコオヤジのようだが、紛れもない一流料理人だった。



サンジが降りてきたからといって、何か仕事を頼むことはない。

ゼフも、呼んでおきながら、「何をしろ。」などと決して言わない。

サンジは、桶に入れられたジャガイモの山を膝に載せ、皆の邪魔にならないよう、通用口から表に出、そこで皮剥きを始めた。



一心不乱に、ジャガイモの山と格闘する。

その間だけは全て忘れていようと、ただ手だけを動かし続けた。



 「…あ…!サンジさん…!」



通用口が開いて、生ゴミを抱えた見習いのトニオが、サンジを見つけて目を丸くした。



 「おう。」

 「すみません…!サンジさんに皮むきなんて!オレの仕事なのに…すみません!」

 「いいよ。昨日1日、包丁握ってねェからうずうずしてたんだ。」



トニオは、ゴミの袋を抱えたまま、うっとりとするような目でサンジの手元を見つめていた。

サンジの手は神の手だ。

無駄な動きはひとつもなく、むかれた皮はまるで透き通るように薄く、そのくせわずかも残ってはいない。

クリーム色の肌は艶を放ち、瑞々しく輝いていている。

同じジャガイモなのに、自分が剥いたものとサンジが剥いたものでは、仕上がりの味さえ変わってしまう。



そのトニオの目が、ふと、サンジの足に向けられる。

もう二度と、動くことのない足。

足さえ自由だったなら、この人は、こんな所でこんな事をしているはずの人ではなかった。



その目を、サンジは感じている。



専門学校を出たばかり、調理師免許1年目のガキにまで、こういう目で見られる。



サンジは苛立つ。

だが、それはトニオのせいではない。



この足。

この崩れた2本の足。



ただ、腰から下に、ついているだけの無機物。



この足さえ自由だったら。

動いてくれたら。













動いたら











オレはどうするんだ?







 (ゾロ…。)



その名を、思い浮かべた時



 「痛っ…!」

 「サンジさん!」



人差し指の先を、小さく切った。

ぷくん と、小さな血の塊が膨らむ。



 「大丈夫ですか!?」

 「どうってことねぇ。あ〜あ、オレとした事が。」



血



ゾロ



手の怪我



カメラマンのクセに、カメラを持つ大事な手で、ナイフを握るなんてイカレてる。



 「待っててください!今、救急箱!」

 「そんな大層なケガじゃねぇ!みっともねぇからわめくな!舐めときゃ治る!それよりほら、イモ持っていけ!」

 「でも!」

 「いらねぇってんだよ!余計な気遣ってんじゃねェ!!クソ野郎!!」

 「すっ!すみません!!」



慌てふためいて、トニオは笊を抱え、逃げるように厨房へ戻った。



 「…クソ…。」



あんなガキに、あたるなんて情けねェ…。









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(2007/6/29)





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