BEFORE









 「まぁ、サンジさん…!」

 「おお、サンジくん!」



夜

馴染みだった画廊の主人夫婦。

誰かが、オレが戻っていると口を滑らせたらしい。



オレが子供の頃からの、この店の上客だ。

無下には出来ない。

会いたいと言われ、やむなく、フロアに顔を出した。

普段着で2階に居たが、ここに置きっぱなしの黒いスーツにネクタイを締め、フロアへ出た。

コックの服は着なかった。



途端に、他の客達の目がオレに集中する。



オレを初めて見る客もいる。

だが、幾度かこのフロアで応対した客もいる。

その全ての目が、“車椅子のシェフ”に注がれる。



好奇心と、同情と、憐れみが、オレの足一点に集まる。



もちろん、画廊の夫婦も。



 「まぁ…。」



妻は、口元を覆って、そうつぶやいたきり黙りこんだ。

夫も、眉を寄せて言葉を失った。

そして



 「お気の毒だったね…。」



と、決まり文句を夫が言った。



 「過ぎたことです。」



オレは笑って答えた。

同じ眼を向ける既知のものに、オレはこの言葉を何度繰り返しただろう?



笑って。



そしてオレが笑うから、皆、一層オレを哀れむのだ。



笑うしかねぇンだ。

実際。



笑って、そんな目を、落ち込むオレの気分を蹴飛ばすには。



その中で、びっくりした目をしてはいたが、哀れむことをしなかった唯一の人間。



車椅子の理由を聞いてください。

答えますから。

遠慮なんかしないで、さあ、どうぞ?

聞きたいでしょう?



その言葉に、素直に「何故?」と問い返したのも、実はお前が初めてだったんだぜ?ゾロ。













ああ











どうして?



忘れよう

思い出すのは止めよう



そう思いながらどうして、いろんなことをアイツに繋げて考えちまうんだ?



夫妻のグラスにワインを注ぎ、それだけの給仕をしてサンジは奥へ引っ込んだ。

どうあがいても、オレはこのフロアには目障りな人間だ。



こんな姿で、どんなに笑顔を振りまいても、どんなに見事な料理を作ろうとも、この足に注がれる同情の目は消えない。

そしてその同情の眼は、ジジィの料理の味の魅力を半減させてしまう。



それを、オレは許せなかった。









ゼフが、1日の仕事を終えて2階へ上がってきた時、時計の針はもう12時を回っていた。

明日の、いや今日大晦日まで、店は営業する。



 「メシ食うか?味噌汁温めなおすぜ?」



サンジの言葉に、ゼフは黙ってうなずいた。

車椅子を動かすには適さないフローリングの床が、きしんだ音を立てる。

ダイニングの椅子に腰を下ろしながら、ゼフはちらりとサンジの背中を見、



 「…ちゃんと、病院に行ってるか?」

 「行ってる。まぁ、行っても、目新しい報告は出来ねェよ。」



小さく、サンジは笑った。



 「つーか、行ってるのは知ってるだろ?毎月無理矢理、あの2人に連れて行かれるんだから。」



また、サンジは笑う。





ゼフは知っている。

息子が、こんな風に笑う時は、本当は笑いたくない時だ。

笑いたくないのに、無理矢理笑顔を作る。

その時の顔だ。

そしてサンジも、それを見透かされていることを知っている。



母親を早くに亡くした。



だがサンジは、手のかからない子供だった。

本当は辛い時も、助けが欲しい時も、笑顔を浮かべてなんでもない素振りをする。



そんな息子の、その性格ゆえのケンカを、何度繰り返してきただろう?



1年が終わる。



ケンカで暮れたくはなかった。



父親だ。

照れくさくとも、愛情は人並みに持っているつもりだ。



だが



 「ゴロゴロ寝腐りてェなら、テメェの家でしろ。役にたたねぇ野郎に食わせる年越し蕎麦なんざねェ。」

 「食わせてくれる気あったのかよ?」



笑って、サンジは前髪をかき上げた。



息子だ。

言葉の裏側の優しさくらい、ちゃんとわかる。



しばらくの沈黙の後、サンジはつぶやいた。



 「今年はもう、雪は降らねェかもしれねぇなぁ。」

 「おかげで、冬の野菜の仕入れが巧くいかねェ。獲れ過ぎと質とサイクルはまた別の話だからな。」

 「ああ、そういや魚がさ…。」



この親子の共通話題は、もっぱら料理に関することだけだ。

その晩、サンジとゼフの居間の灯りが消えたのは、明け方近くになってからだった。







それでも、親子はいつもの時間に起床した。

他のコックたちが出勤するより早く、サンジは厨房に下りて、誰もいない内にとスープストックの仕込をした。



気まぐれだ。



昨日から、まともに料理をした感覚がなかったので、我慢できずに勝手にやらせてもらった。

バラティエ自慢のコンソメスープのストックは、3日間煮込んで1日かけて濾す。

元日は休みだから、これは新年初日のスープに使うことになる。

スープ担当はパティだから、多分文句を言われることはないだろう。



一番下っ端のトニオが出勤してきた頃には、サンジはもう2階へ上がっていた。

スープの鍋が火にかかっているのを見れば、後はパティがやってくれる。



それで、満足することにした。



世間は大晦日で忙しくとも、サンジの周りは静かだった。

心の中は荒海のようだったが、部屋で、ぼんやりと煙草をふかしていると、小さな物音まで聞こえてくる。



 「サンジ!」



下から、パティの声がした。



 「…ああ、パティ。悪ィ、勝手にストック作っちまった。」

 「いや、そりゃあかまわねェ。客が来てるぜ。」

 「…悪ィが断ってくれ…フロアには出たくねェ。」

 「そっちの客じゃねェ。上がってもらうぞ!」



一瞬、ドキッとした。

まさか、ゾロ?

ここを突き止めて来た訳じゃねェだろうな?



思わず、転がっていたベッドから半身を起こす。

心臓が、バクバク鳴っていた。



まさか



そんなばかな。



でも



もしかしたら…。



足音が、2階へ上がってくる。

ゾロが、階段を上がる音は聞いたことがない。



だがわかる。

これは男の足音だ。

そして



 「…よぉ。」



その顔を見て、サンジは落胆と同時に、喜びと安堵感と懐かしさを抱いた。



 「クリケット!!」



モンブラン・クリケット。

サンジの、高校時代の部活の顧問兼監督。

恩師だ。



 「蕎麦を頼まれてたんでな。届けに寄ったら、お前ェさんが帰ってるって聞いたんだ。」



体の大きなクリケットは、ヨイショと足を折ってラグの上に胡坐をかいた。

テーブルの上の灰皿を引き寄せ、胸ポケットから出したハイライトに火をつける。



サンジがクリケットに会うのは2年ぶりだ。

だが、あの事故の後、病院に見舞いに来た師を、サンジは丁重に追い返した。

サッカーの師だ。

足を失った。

会いたくなどなかった。

当然、かつてのチームメイトにも会いたくなかった。

だがサンジは、仲間は笑顔で出迎え、強がって見せた。



サンジはいつも、クリケットを名で呼んだ。

『先生』などと呼んだことは一度もない。

それはサンジに限ったことではなかったが、それだけこの男は、生徒に慕われ愛されていた。

当然サンジも、このがらっぱちな教師が好きだった。



正直、会えて嬉しい。



ゾロであるはずがないことを、心の中で少し悔やみながら、サンジは笑って言う。



 「こんな時期に、のんびり蕎麦なんか打ってていいのかよ?」



大晦日とはいえ、全国高校サッカーの決勝戦は年明けすぐだ。

今年もサンジの母校は出場していた。

もっとも準決勝で敗退し、決勝戦に出ることはない。

だが、それが終わればすぐに、春の大会に向けて1、2年生の強化練習に入る。



 「ああ。オレは引退したんだ。」

 「え…!?」



いつ?



 「3年前に心臓を患ってな。走れねェ監督なんざ、何の役にもたたねぇ。」

 「………。」



にやりと笑って言うクリケットに、サンジは返す言葉がない。

そして



 「ごめん。」



と、サンジは謝った。



 「何だ?藪から棒に。」



サンジは、この師に謝らなければならないことがある。

病院で追い返したことではない。



この師には、ひとつの夢があった。



『 世界に通用する選手を育てること。 』



そして、その夢に最も近かったのがサンジだった。

サンジは高校2年の時、U-20の日本代表に選出されたことがあった。



 「…結局、あの3試合でピッチに立ったのは、トータルで30分にも満たなかった。世界の広さを思い知らされちまった。」



サンジが言うと



 「なぁに。アレはアレでいい夢だった。30分でも、オレにとってはいい夢だった。」



と師は笑う。



サンジは育つ、必ずワールドカップのピッチに立つストライカーになれる、とスカウトは少なくなかった。

だがもっと、サンジにはやりたいことがあった。

その夢を選んで、そして、今自分は―――。



選んだ夢がサッカーでなかったことは、一度も後悔していない。

車椅子になって、不自由や自己嫌悪を感じても、決して怯んだりはしなかった。

歯を食いしばり、石に噛り付いて、あの店を持った。

もう1度、選んだ夢を叶えるために進んでみせる。

そう誓って、今日まで。



そこへ現れた光り輝く太陽を、諦めなければならないこの苦しさ。



願って、手を伸ばして、掴みかけて、そしていつもそれは指の間をすり抜けていく。



ゾロ



ゾロ



逢いたい。



お前の顔が見たい。



抱きしめられたい。



掴んだお前の手を、本当は離したくなかった。



好きだ。



本当に好きだ。



だから、オレはお前を望んじゃいけねェ…。









 「サンジ。」



一瞬、ゾロに呼ばれたかと思った。



低く、一文字ずつゆっくりとつむがれた声に、思わず涙がこぼれた。



こぼれて

その顔を、見られてしまった。



 「辛くない訳はねぇな。」

 「………。」

 「オレは辛かった。医者のバカ野郎から、もうサッカーの指導なんか無理だ、死にたくなかったら止めろと言われた時は、

  ムカッ腹たってぶん殴ってやりたかった。余計なお世話だってな。」

 「………。」

 「ところがよ、チームのガキどもやウチのヤツらが、“死ぬのは困る”なんて言いやがった。

  ずっと、自分の夢ばっかり追いかけてきたからな、

  今度は女房やガキどもと、一緒に見られる夢を追いかけるのもいいんじゃねぇかと思うことにした。」

 「………。」

 「まだ準備の最中だがな。来年の秋ごろには、蕎麦屋の親父になってる予定だ。まぁ、気が向いたら食いに来いや。」

 「……蕎麦屋の親父になるんだったら、そのタバコは止めねぇとなァ…。てか、ドクターストップかかってんだろ?」

 「そっくり返すぜ、バカヤロウ。家で吸えねぇから、今ここで吸ってんじゃねぇか。」



言いながら、クリケットはタバコの火を消した。



 「いつもテメェの親父は心配してる。いつ顔を出しても、お前ェをクソバカ呼ばわりしてるが、そいつぁ愛情の裏返しだ。

  …辛かったら逆に、そういう顔を親父にも見せろ。」

 「それこそ余計なお世話だ。」



言いながら、顔を背けて表情を隠す。



 「ああ、それからな。オレの夢は何もお前で終わった訳じゃねぇ。

  これから他に、本気で世界に飛び出す奴が出てくるかも知れねぇんだから。」

 「………。」

 「…さて、大晦日のこんな時間に、どこで油を売ってんだと怒鳴られちまうな。」



クリケットは立ち上がり、剃りあげた後頭部を撫でると



 「何があったか聞こうとは思わねェが、今のお前ェは、足失くした時より苦しそうなツラしてるぞ。」

 「………。」

 「何を無くしたにしても、泣くのは戦って死んだ後にしろ。」

 「!!」

 「忘れてねェようだな、そうだ、いつだかお前ェが、チームの仲間に言ったセリフだ。」



忘れやしない。

高校2年のこの季節。

国立競技場。

決勝へ勝ち残るための試合。

サッカーでは絶望的な4点差。

しかもまだ前半終了折り返し、ハーフタイム。

誰かが、涙の滲んだ目を擦ったんだ。



その後、1点差にまで詰め寄ったが結局負けた。

その3点を叩き出し、ハットトリックをやって見せたのはサンジだった。

サンジの必死の様は、仲間を奮起させた。

GKは、それから1度もゴールを割らせなかった。

試合には負けたが、満足だった。



死んでもいいと本気で思った。

そう思って走り続けた後半戦だった。









戦っていない。



サンジは戦うことをしなかった。



始めから、ナミに勝とうとは思わなかった。



勝てるとも、思っていない。



決して負けないと、胸を張って言えるのは、胸に抱いたこの想いだけだ。









 「…もう…放っといてくれ…もう帰れよ…!」



肩で大きく、クリケットは息をついた。



 「ああ、帰ってやるよ。ああ、そうだサンジ、お前ェ一度くらい、かつての恩師に自分の料理食わせてやろうって気はねぇのか?

  店なんかいつ持ったんだ?オレぁ、全然知らなかったぞ。」

 「……そりゃそうだろ…誰にも教えてねぇからな……。」

 「…あまりオレ達を見くびるな、サンジ。突っ張らかるのもいい加減にしとかねぇと可愛げがなくなる。思い上がるな。」

 「………。」

 「お前、自分がそんな体であることを、どこか逃げ道に使ってねぇか?そうして戦う前に逃げるか?そりゃ、楽で結構なこった。」



足が動いたなら、多分殴りかかっていった。



逃げ道



胸が、ナイフで刺されたように痛んだ。



久しぶりに会ったのに、こんな形でしか送り出せないのか?

でも、言い訳する気力も謝る気力もねぇ。



クリケットは、振り返りもせずに下へ降りていった。

階段の途中辺りから声がした。

トニオの声だ。



 「アレ?お帰りですか?お茶淹れたのに。」

 「ああ、もうオレの面を見ていたくねぇとよ。またゆっくり寄らせてもらわぁ。」

 「そうですか…お気をつけて、良いお年を!」







少し間があってから







 「…サンジさん…お茶…淹れたんですけど…。」







 「…サンジさん…?」







 「…さんきゅ…そこ…置いといてくれ…。」



サンジの答えに、トニオはぱっと顔を輝かせて



 「はい!あの、何か用があったら言ってくださいね…!」

 「…ああ…。」



優しさは同情じゃない。

よくわかっている。



 「トニオ。」

 「はいっ!!」



打てば響くように返事があった。

一瞬躊躇って、でもすぐに足音が階段を駆け上がってきた。

トニオがサンジの部屋を覗いた時、サンジはラグの上の足を投げ出し、ベッドを背もたれにして開け放った窓の方を向いていた。



冷たい風。



サンジが、凍てついている様に見えた。



振り返りもせず、サンジは小さな声で言った。



 「…お前の故郷の雑煮ってどんなだ…?」

 「え?雑煮?」

 「ああ、正月に食う雑煮。」

 「オレ関東ですから、しょうゆ味の澄まし汁に角餅です。

  あ。でもウチの雑煮は青菜は小松菜じゃなくて油菜なんですよ!」

 「正月、帰るのか?」

 「いえ、帰りません。

  オレ、この店で一品任せてもらえるようになるまで帰らないって、マ…お袋と約束してるんです。」

 「…ふーん…。」



サンジの薄い反応に、恥ずかしいことを言ったと思ったのか、トニオは真っ赤になって我に返った。

たまにここへ帰ってくるサンジ。

新入りのトニオと入れ違いに出て行ったから、あまり馴染みがなかった。

ただ、凄腕のシェフだったということはよく知っていたから、いつも憧れの俳優を見るような感覚で接していた。



 「トニオ。」

 「は、はいっ!!すいません!生意気言って…!!」

 「明日、雑煮作ってやる。」

 「え!?」

 「夜までに材料買って来い。」







一瞬、何のことか分からなかった。

だがすぐに



 「はい!!ありがとうございます!!」



と、ようやくサンジは振り返り、トニオを見た。



 「…嬉しいか?」

 「はい!!」

 「…そっか…。」



悲しい笑顔だったが、サンジは笑った。







いいんだ。



オレは、この笑顔があれば生きていける。



オレの料理を喜んでくれる人たちの、この愛しい笑顔さえあれば。















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(2007/6/29)





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