BEFORE
サンジは、ベッドサイドの卓上カレンダーに目を落とした。
今日の日付は10月21日。
もうすぐ
ゾロの誕生日
20歳の
「………。」
4年間
ゾロは毎週サニーヒルズで、あの街路樹の下でサンジの放送を聞いていた。
放送が終わると、ゾロはまるでボディガードの様にサンジの後ろをついてきて、
部屋の前まで送り届けた。
その間に、ゾロは2年生になり、3年生になり、地元の国立大の学生になった。
生活は大きく変わったであろうに、サンジの前に現れるゾロは何も変わらない。
ただ、あれからまた背は高くなり、わずかにサンジを追い越し、声は一段と低くなり、前より一層おっさん臭くなった。
毎週毎週逢う毎に、ゾロは、確実に大人になっていく。
黙って後ろをついてくるゾロと、振り返りもせずに、黙って先を歩くサンジ。
これが4年間毎週続けば、ちょっとした地元の名物だ。
飲み屋や、他のバーやスナックのマスターやママさん達が、
開店の準備をしながらサンジとゾロに声をかけるのも当たり前の光景になった。
その時のちょっとした会話を繋ぎ合わせて、ゾロの、毎晩帰りの遅い父親が、
昔その街の飲み屋の女に騙されて借金を作り、資産家の女房の実家に助けられたものの、
女癖の悪さは直らず、離婚してからも、あちらこちらの女から女へ渡り歩いているのだという事を知った。
そして母親も、今は他の男と結婚して、日本に居ない事も知った。
自分より、ゾロはずっと苦労をしてきた。
早くに死んだ両親の記憶はないが、祖父に何不自由なく育ててもらって、
莫大な財産まで遺してもらったおれなんか、甘ちゃんもいいところだ。
もしかしたらゾロの方がずっと、おれより人間の嫌な部分を見て育ってきたのかもしれない。
そのゾロが
声、聞いてるとスゲェ安心できた。下らねェ事もつまらねェ事も全部、あんたの声で忘れていられた。
気が付いたら好きで好きでどうしようもなかった。だから、あそこであんたを見てるだけでよかった。
おれは、残酷な事をしている。
時折、とてつもなく罪悪感に襲われる。
優しくしない
そう言った自分が嫌になる。
1年目
たまには別れ際、“ありがとう”って言うくらいいいだろ?
2年目
お茶くらい、誘ってやってもいいだろ?
3年目
…もう…普通に会話するくらいいいだろ…?
心の中でそう思いながら、今日も「お待たせ。」「じゃ、また来週。」。
それだけ
「………。」
バーカウンターの後ろに置いてある、アナログなレコードプレーヤー。
死んだジジィの形見。
若い頃、祖父はジャズバンドのサックスプレイヤーだった。
進駐軍の慰問なんかしていたらしい。
そのジジィが、ずっと大事にしていたビクターのステレオ、ニッパーくん付。
これもまたジジィの形見、アナログなLPレコードの束の中から、適当に1枚を引っ張り出す。
ハンク・クロフォード
『ひとりぼっちの夜』
「………。」
目が、無意識にその隣のジャケットを捕らえる。
指を、ジャケットの角にひっかけて、ゆっくりと手前に倒す。
ピンクのストライプをバックに、ブルネットのキュートな女性の写真。
ジゼル・マッケンジーという歌手の古いレコード。
裏返して、曲名を指で追う。
その中に
『Days of Wine and Rose=酒とバラの日々』
溜め息をつき、顔を覆った時、携帯が鳴った。
鬱陶しげにディスプレイを見る。
メールだ。
ゾロか?
わずかに胸が鳴る。
が
「……なんだ。」
客だ。
『急で申し訳ない。アイラ、ハイランド・パーク、ベリーブラザーズ&ラット13年、ビンテージを手に入れてもらいたい。
年代問わず。が、できれば1900・1902。 他 シャンパン、ブルーノ・パイヤール、1986を3本。
アラン・ロベール、1990。 カルヴァドス、チュボー年代問わず。 ポール・ジロー、45・46・47ブレン。
11月25日、事務所設立記念日に使用。』
短く、そっけないメールを一瞥し
「1900…大きく出たな…13年もの…。…2か月無ェじゃねェか。
チュボー…年代問わずって…アンジュジアール1960年だろ、どうせ…。
ポール・ジロー…これってビクター・サロモンって奴か?お目にかかった事ねェよ…。」
上得意客である。
これまでに、サンジに注文してきた酒は200本ちかくになる。
酒そのものの金額もすでに1千万を越えたが、それらを手に入れる為のサンジへの投資もその倍以上になる。
今、ここに羅列されている酒も、全部購入したら50万は超える。
「…アイラ…スコットランドか…。」
サンジは、タバコを1本取り出し口に咥え、火をつけると、携帯のボタンを押した。
「…もしもし、フランキー?おれ、サンジ。」
電話の向こうがとんでもなく賑やかだ。
「ちょっと本業が入った…状況で日本を離れるかもしれねェ…録音が可能な放送日…いつかな?」
「ちょっと待て。」、と言う返事、大声で何か言葉を交わし、そして
『待たせたな。…ああ〜…11月11日だな。』
「11月11……!!?」
11月11日
ゾロの20歳の誕生日。
「金曜日だったか!?」
カレンダーをひったくり、めくると、11月11日は見事に金曜日だった。
「…そんな…!!」
『ああ?何が?』
フランキーの声に、サンジは慌てて
「その日は困る…。」
『他の放送日はゲスト呼んでるだろうが。そっちの予定は変えられねェ。』
「…わかってる…。」
要望の日に間に合わせるには、サンジ自身の手に渡るタイムリミットは11月20日と見ていい。
客は、自身のパーティの招待客に、『これだけの酒を用意した。』と事前に明言したいのだ。
サンジなら容易く手に入るものもあるが、難しい酒が何本かある。
現地に行くにしても、スコットランドとフランスだ。1週間で戻るのは難しい。
ありがたいのは、バーボンやラムなどのアメリカ生まれの酒が無い事だけだ。
無理です。と、一言言うのは簡単だ。
だが、サンジにもプライドがある。
「…ありがとう、フランキー…その件は、また話す。」
『わかった。…が、もし録音になるなら、早いうちに言ってくれよ。』
本来生放送の番組だ。
11日当日、ギリギリでスタジオに駆けこむのもありだ。
「………。」
サンジは、ちらりと浮かんだゾロの顔を振り払い、ノートパソコンを引っ張り出し、
携帯を開き、注文品の手配に取り掛かった。
翌週
10月28日
「…来週あたりは、街の銀杏も黄色一色に染まっていると思います…彼と…散歩でもいかがですか?
…その時まで、ちゃんと仲直りしてくださいね…素直になって。
…あ、もうすぐ6時になりますよ、お友達との約束の時間大丈夫ですか?
…それではまた…来週もこの時間に、バー・オールブルーでお待ちしております…。
マスター、サンジでした……。」
街路樹のマロニエの大きな葉も、鬱陶しくバサバサ落ちる秋の夕暮れ。
車のライトがまぶしい。
「お待たせ。」
そう言って、サニーヒルズから出て来たサンジを見て、ゾロは少し眉を寄せた。
そして
「…具合悪いのか?」
珍しく、ゾロが口を開いた。
「…そんな事ねェよ。」
「顔が蒼い。」
「…暗いせいだ…あ、ほら。今週からイルミが始まったからな、あの光のせいだろ?」
「……いや、顔色悪ィ。」
「………。」
「タクシー呼ぶか?」
正直
疲れている。
昨夜は、時差のあるヨーロッパへ一晩中電話をかけていた。
ポールジロ―・ビクターサロモン、1945・1946・1947年蒸留の同じ酒をブレンドしたブレンデッドコニャック。
この酒だけがどうしても見つからない。
その前の晩は、店に客を迎えていた。
別件の客だった。
年配の紳士なのだが、娘が結婚するとかで、その娘を初めて店に連れてきてはしゃいでいた。
帰ったのは、午前2時を過ぎていた。
ここ5日ほど、まともに眠っていない。
それを、見抜かれた。
それだけ顔色が悪いのか、それともゾロだから、なのか…。
「…すぐ近くだから…いいよ…。」
そう言った時にはもう、ゾロはタクシーを捕まえていた。
ゾロは、すぐにサンジの変化に気づく。
少し、喉の調子が悪かった時、放送の後黙って手渡されたコンビニ袋に、
これでもかというほどの量ののど飴とドリンク剤が入っていた。
サンジを乗せると、ゾロはサンジのマンションの名を告げた。
そして、少しためらいを見せた。
「…乗れよ。」
「………。」
サンジに促され、ゾロはサンジの隣に座った。
シートに身を沈め、サンジは深くため息をつく。
「出しますよ。」
そんなに、しんどそうな顔をしてるのか?
タクシーの運転手の言葉に、サンジは小さく苦笑いした。
「…風邪か?」
ゾロが尋ねた。
「…いや…ちょっと徹夜が続いた…。」
「…仕事か?」
「ああ…ちょっと手に入れるのが難しい酒、注文された…。」
「………。」
「…大丈夫…心配すんな…。」
と
「………。」
ためらうように、だが強く、ゾロの手がサンジの手を包んだ。
「………。」
その暖かさに、サンジが思わず口元に笑みを浮かべた時
「…悪ィ。」
手が、離れた。
頬が、少し赤い。
なのに
苦し気な横顔
4年
十分すぎる
わかってる…。
マンションのエレベーターを降りて、サンジがポケットから鍵を取り出すと
「…ちゃんと食って寝ろよ…。」
ゾロが言った。
その言葉に
「…一緒に飯食うか?」
自然に、その言葉が口から出た。
「………。」
けれど
「……まだ早い……。」
「………。」
「…11月11日までまだ2週間ある。」
「…ゾロ…。」
「まだだ。」
言って、ゾロは階段を下りて行った。
いつものように
なんで
おれはこんなに頑張ってる?
11月11日
この放送日を欠きたくない。
いつものようにラジオを終えて、でもその日はいつもの金曜日の様じゃなく、
この場所で、もう一度お前に、「好きだ」って言ってもらいたい。
そうしたら
そうしたら
「…おれも…。」
おれも…?
サンジは首を振った。
4年前
あの背中。
紺のブレザーの大きな背中。
でも、どこか華奢で細かった肩。
初めてマジマジ見た時から、お前が気になった。
親しくなって、お前が可愛くてしかたがなかった。
何の妥協もなく、ためらいもなく、「好きだ!」って叫ばれて、本当は嬉しかった。
おれの事なんか何も知らない癖に、ガラスのスタジオの向こう側のおれだけを見て、
それで好きでたまらないって言ってくれた。
ホントに嬉しくて
でも
怖かった
お前もおれの上っ面を好きなだけだ。恋に恋しているだけだ。
本当に大人になっていろいろな事を知れば、ガキの頃の惑いなんかただの熱病みてェなもんだ…
お前だって、いつかおれを裏切って離れてく。
そう思って、必死に自分を止めていたのに、ゾロは大人になって歪むどころか、
ますます熱く、一途になっていく。
だけど
お前が一途であればあるほど、怖くて怖くてしかたがねェ…。
次の日の土曜日、3個の国際便が届いた。
すぐに梱包を解き、中の酒を確認する。
今日届いたのは、アイレイモルト・ハイランド・パーク。
シャンパン、ブルーノ・パイヤールとアラン・ロベール。 カルヴァドス・チュボー。
「!!…ブルーノ・パイヤール…86年じゃねェじゃねェか!!3本とも!?」
ラベルが違う。
ビンテージは明らかに1982年。そして残る2本は84年。
「あの野郎!!」
フランスの、仲買人に速攻電話をする。
送ったメールも、ちゃんと1986年となっていた。
サンジの猛烈な抗議に、プライドの高いフランスの仲介人も平謝りだったが、
1986年ものは人気が高く、今から探して年末までに手に入る可能性はないという。
「だからって82年物か!?ふざけんな!!それでもプロかよ!!もういい!!」
電話を切った瞬間、めまいがした。
「クソ…!」
82年も悪い品ではない。
だが、相手の指定は86年なのだ。
「…やり直しか…!」
万が一を考えて、日本の業者にも当たってはいた。
だが、どこからも連絡はない。
時期的にも、シャンパンは競争率が高いのだ。
自分の足で探すしかない。
「………。」
カレンダーを見る。
次の放送は11月4日。
「それまで…メドつけねェと…。」
サンジは懸命に動き回った。
これほど必死になって、この仕事をするのは初めてかもしれない。
このタイミングで、この仕事をしくじったら、4年の何もかもが無駄になるような気がした。
そして、モナコのあるバーから、サンジの求めるブルーノ・パイヤール86年が1本ある、譲ってもいいという確約を取った。
ありがたい事に、その知人のドバイのホテル関係者に、5本売った内の2本が残っているという。
さらに
「オークション!?どこで!!?」
オーストラリアの仲買人が、ポールジロ―がオークションに出ると知らせて来た。
「ケアンズ…!?それ、いつだ!?……11月10日…?時間は…?21時…夜かよ!?」
珍しい事ではない。
大概にして酒のオークションは夜に開かれる事が多い。
出品される酒は殆どが同種類、ウィスキーならウィスキー、ワインならワイン。
それらを楽しみながら、出品された酒を鑑賞しつつ、そのボトルネックに落札希望価格を書いた札を下げていく。
よくテレビなどで見る、絵画や美術品等のオークションの様な形態もあるが、
酒、しかもワインやブランデー、コニャックなどの気取った酒に関しては、
上流階級好みの、こういった静かなオークションが主流なのだ。
11月10日、オーストラリア・ケアンズ。
運よく酒を手に入れても、向こうを発つのは深夜か翌日だ。
しかも秋、直行便とはいえ、帰路の方が時間がかかる。
成田から、この街まで戻るのに4時間はたっぷりかかる。
どう考えても、夕方5時からの『バー・オールブルー』の放送には間に合わない。
「大博打だ…。」
だが、これを逃したら、おそらくもうポールジロ―は手に入らない。
いや、手に入れる事は出来る。
問題は
肝心の11月11日の放送に間に合わないという事だ。
ゾロには何も話していない。
11月11日、きっといつもの様に、サニーヒルズで放送があると思っているはずだ。
いや、フランキーにすら、「今のところ予定通り」と言っている。
こんな巡り合わせ、ありか?
簡単に、解決する方法は ある。
今すぐ、電話を入れて断ればいい。
「手に入りません。」一言そう言えばいいだけだ。
けど
「………。」
日曜日の早朝、サンジはボストンバックを肩にかけ、駅前のバスターミナルで空港行きのバスのチケットを買った。
モナコからは、酒を送ってもらえる事になった。
あと2本を、ドバイへ直接交渉に行く。
電話では、OKをもらえなかった。それなら現地へ行くだけだ。
出発まで少し時間がある。
駅前のコンビニに入り、水と缶コーヒーを手に取ってレジへ向かった。
「…サンジ?」
その声に、サンジは財布を覗いていた顔をあげた。
「ゾロ!!?」
「…どっか行くのか?」
ゾロだ。
緑の頭に真っ赤な制服。
一瞬おかしくて吹き出してしまった。
「お前…何?ここで、バイトしてるのか!?」
「ああ。どこ行くんだ?」
ピ ピ とチェックを通して、ゾロはまじまじとサンジの顔を見た。
肩に大きなバッグを提げている。
いかにも旅姿だし、ここは駅の側だ。
「…ああ、ちょっとな。」
「この前言ってた仕事か?」
「ああ…。けど、メドはついたんだ。心配ねェ。これから引き取りに行くんだ。」
「どこまで?」
「……外国……。」
「だから、どこだ?」
何、怒ってるんだよ…?
「…ドバイ…。」
「…遠いな…。」
「でも、直行便があるからさ…そうでもねェよ。」
「………。」
「…ん?」
「…顔色…戻ってねェ…。」
「……飛行機の中でたっぷり寝るよ。9時間以上かかるから。」
「やっぱ、遠いじゃねェか!」
「あはは…!土産買ってこようか?キンキラキンのもん。」
「いらねぇよ!」
ゾロが、こんなバイトしてるなんて知らなかった。
思えばおれ、こいつの詳しい事は何も知らない。
こいつもきっと、おれの事なんか何も知らない。
「…無理すんなよ…。」
「………。」
口先だけの優しさじゃないって、もう十分わかってる。
この優しい目を背中に感じて歩く金曜日を、どれだけ愛しく思っているか。
「ゾロ。」
「………。」
「11月11日…。」
「とびっきりの酒、用意するからな。」
「……ああ。」
笑った。
ああ
おれ、まだがんばれる。
「行ってくる。」
「気をつけろよ。」
「ご心配ありがとう。」
「…がんばれ。」
「おう。」
(2010/1/3)
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